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女心の強ければ
おんなごころのつよければ
作品ID42663
著者豊島 与志雄
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第五巻(小説Ⅴ・戯曲)」 未来社
1966(昭和41)年11月15日
初出「女性改造」1950(昭和25)年8月~12月
入力者tatsuki
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2007-01-24 / 2014-09-21
長さの目安約 96 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     一

 松月別館での第一日は、あらゆる点で静かだった。二日目も静かだったが、夕刻、激しい雷雨雷鳴が襲ってきた。
 天候の異変は、却って人の心を鎮める。
 いいなあ、と長谷川梧郎は思った。
 本館では、客がたて込んでいて、騒々しく、仕事など出来そうになかった。もっとも、或る文化団体の嘱託事務のかたわら、際物の翻訳などをやっている、その翻訳の仕事だから、大したものではなく、懶けたとてさほど差支えはなかった。だが、石山耕平から長谷川を紹介された松月館主人は、数日後、長谷川に言ったのである。
「こちらは、あいにく、たて込んでおりまして、お仕事が出来にくいかも知れません。お宜しかったら、別館の方はいかがでしょうか。少し不便ですが、妹が一人いるきりで、静かなことはこの上ありません。」
 それで、長谷川は別館に移ってきた。
 本館から、温泉町を少し通り、裏へそれて、狭い田舎道をだらだら上り、だいぶ行ったところ、丘の裾に、ぽつりと建ってる二階家なのである。あたりには、農家が二つ三つあるきり。浴室はあるが、温泉はまだ通じていない。不便なこと、少しばかりではない。湯にはいるには本館まで行かねばならないし、飯はこちらでたくが、料理は本館から番頭か女中かが運んでくる。
 別館といっても、実は、便宜上の名目にすぎず、特別な客を時折泊らせるだけで、二階が二室、階下が三室、普通の住宅らしい造りである。松月館主人の妹という、三十歳前の女、表札によると三浦千代乃が、一人で住んでいる。
「わたくし一人で、御不自由でしょうけれど、御用はなんでも仰言って下さい。隣りの百姓家のお上さんも、使い走りをしてくれますから。」
 眼を外らさずにじっと見て、てきぱきした語調である。
 小鳥が少し囀ずり、蝉が少し鳴き、淋しいくらいの静けさだ。
 二階の縁側から、天城山が正面に見える。
 西空から差し出てきた積乱雲が、むくむくと脹れ上り、渦巻き黒ずみ、周辺の白銀の一線も消え、引きちぎられたように乱れ流れて、やがて天城山までも蔽いつくすと、一陣の凉風と共に、大粒の雨がさーっと来た。あとはもう天地晦冥、驟雨の中に、雷鳴が四方にこだまし、電光が縦横に走った。それが、いつ止むとも見えなかった。
 長谷川は室に寝ころんで、硝子戸越しに外を眺めた。壮快で、頭の中の塵埃まで洗い流される心地であり、しかもうっとりとしてくるのである。
 雨よ降り続け。雷よ鳴り続け。
 長い時間がたった。
 音もなく、千代乃が立ち現われて、室の入口に片膝をついていた。
「ひどい雷ですこと。二階はあぶないから、下へいらっしゃいません?」
 落雷の危険があるとすれば、二階も階下も同じことだろうし、彼女自身、少しも危ながってはいない様子だ。長谷川がむっくり身を起すと、彼女はもう先に立って降りていった。
 茶の間の長火鉢のそばには、本館から届いた…

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