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怒りの虫
いかりのむし
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第五巻(小説Ⅴ・戯曲)」 未来社
1966(昭和41)年11月15日
初出「群像」1951(昭和26)年5月
入力者tatsuki
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2007-02-10 / 2014-09-21
長さの目安約 24 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 欝ぎの虫、癪の種、さまざまなものが、人間のなかに住んで、正常な感情を引っ掻きまわすと言われているが、ここに、木山宇平のなかには怒りの虫がいつしか巣くったと、周囲の人々から見られるようになった。彼は元来、至って温厚な性質だったのだが、近頃、なにかにつけて腹立ちっぽくなったのである。
 外出に際して、玄関で靴をはいた後、ちょっとポケットにさわってみ、小首をかしげ、大きな声で怒鳴った。
「ふきん、ふきん。」
 八重子夫人と女中が、見送りに出ていたが、何のことかよく分らなかった。
「ふきんだ。」と木山はまた言った。
 もっとも、彼は食卓で、必ず布巾を用意させておく習慣だった。茶とか汁物とか、一滴でも卓上にたれると、すぐに布巾で拭いた。然し玄関での布巾は異例だ。それでも女中は駆けだして、布巾を一つ持って来た。木山はそれを受取ろうとしたが、手を引っこめて、怒鳴った。
「ばか。布巾をどうするんだ。ハンケチだ。」
「あら、」八重子夫人が答えた。「ハンケチは出しておきましたが……。」
 いつも、洋服に添えてハンケチは出してあったのである。
 木山は苛ら苛らしていた。
「よろしい。途中で買う。」
 荒々しい見幕で出かけていった。
 後で分ったことだが、ハンケチはやはりポケットにはいっていた。木山自身の、言い違いと思い違いに過ぎなかった。だが、彼が怒ったのは事実だった。怒ってそしてあとはけろりとしていた。
 丁度、その日の夕方のことだが、一ヶ月半ばかりのアメリカ旅行から帰ってきた川村を中心に、懇意な社交仲間だけの集会が、丸ノ内の山水楼で催された。私的な集りだけに、簡単な挨拶があったきりで、あとはあちこちでの勝手な放談となった。木山宇平は酒瓶を前にして、いつまでも飲んでいた。支那料理のこととて、一定のコースがあるが如くなきが如く、料理の鉢はたくさん卓上に残っているし、木山の酒好きは周知のことで、極めて自然な情況だった。
 その木山が、突然、憤慨しだしたのである。
 彼は腕を突き出し、上衣の袖を指し示しながら、大きな声で叫んだ。
「上衣の袖が擦り切れていたって、構うものか。僕なんか、擦り切れてるどころか、破けてると言ってもいい。それだって平気さ。ちっとも恥かしがることはない。」
「勿論、そうだよ。」隣席の者が応じた。
「恥かしがることはない。恥かしいと思うのは、インフェリオリティー・コンプレックスだ。もっとも、御婦人たちは、ここにいる御婦人たちは、着物の袖口が擦り切れてなんかいない。然し、吾々男子は、擦り切れた服で堂々とのし歩いても、一向に構わんじゃないか。」
 初めは、なんのことか、あたりの者も解しかねたが、やがて、不穏な空気がふっと漂ってきた。
 川村が先刻、挨拶の中で、上衣の袖口のことを洩らしたのである。アメリカ旅行中、赤毛布式な失敗はあまりしなかったが、或る招待の宴席に臨ん…

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