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擬体
ぎたい
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第五巻(小説Ⅴ・戯曲)」 未来社
1966(昭和41)年11月15日
初出「新潮」1952(昭和27)年6月
入力者tatsuki
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2007-04-04 / 2014-09-21
長さの目安約 25 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 退社間際になって、青木は、ちょっと居残ってくれるようにと石村から言われて、自席に残った。同僚が退出した後の事務室は、空気までも冷え冷えとしてきた感じで、眼を慰めるものとてない。壁に懸ってる地図だのカレンダーだの怪しげな版画だの、毎日見馴れてるものばかりだった。受付兼給仕の宮崎がまだ残っていたが、衝立の陰で、何をしているのやら、ひっそりとして物音一つ立てなかった。青木はやたらに煙草を吹かしながら、新聞の綴込をぼんやり読みあさるより外はなかった。
 石村は社長室で、来客と話し込んでいた。前の石村商事、今の石村証券の、彼は社長だったが、どういうものか、社員にも石村さんと呼ばせて、社長と言われるのを嫌った。もと陸軍の退役中佐だったが、終戦当時から中佐と言われるのを嫌ったのと、同じ意味合だったらしい。そして時間を守ることは几帳面で、社長室に来客があっても、社員には遠慮なく退出さした。もっとも、十人に足りない小さな会社なのである。
 ちょっとというのが、三十分あまりかかった。石村は廊下まで来客を送り出して、それから事務室へ顔を出した。
「待たして済まなかったね。」
 青木に声をかけて、それから室内を一通り見廻した。
「宮崎君、君はもう帰ってよろしい。」
 宮崎は直立不動の姿勢をした。
 青木は石村について社長室にはいった。
 中央の大きな円卓をかこんで、長椅子や安楽椅子が並んでおり、壁には大小数枚の油絵があった。卓上には、ウイスキーの瓶や水差やピーナツが出ていた。石村が来客と一杯やっていたものらしい。
「さあ掛け給い。」
 石村は青木に安楽椅子を指し示し、自分は長椅子にかけようとしたが、ちょっと小首を傾げて、事務室のとは別な扉を開けて出て行き、ウイスキーの新たな瓶を持って来た。そこの室には、女秘書の小島がいる筈だったが、それももう帰って行ったらしかった。この女秘書は、石村を直接訪れて来る客を取次いだり、茶を出したり、タイプライターを叩いたりする役目だ。石村はタイプの文書が好きで、それを叩く音がこの室にはのべつにしていた。
 青木は石村と全く二人きりなのを知り、石村の応対が懇切なのを見て、これはいつもと違った用件だと悟った。
「引止めて、迷惑じゃなかったかね。」
「いえ別に……。どうせ酒を飲むぐらいな用しかないんですから。」
「ははは、うまいことを言ってるぜ。」
 石村は二人のコップにウイスキーをついだが、なにやら憂鬱そうだった。煙草の煙の合間に、ふっと眉間に皺を寄せたりした。だが、彼のそういう表情は、何等かの行動的決意に依るものであることを、青木は知っていた。
 石村は青木の顔をじっと見た。
「実は、君に少し頼みたいこともあるんだが、なにか、特別な情報はないかね。」
「情報と言いますと……。」
「いや、そうむつかしく考えんでもいいがね、つまり、日本は今、ひどく緊迫した…

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