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支那人の食人肉風習
しなじんのしょくじんにくふうしゅう
作品ID4270
著者桑原 隲蔵
文字遣い旧字旧仮名
底本 「桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」 岩波書店
1968(昭和43)年2月13日
入力者はまなかひとし
校正者菅野朋子
公開 / 更新2002-02-26 / 2014-09-17
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

この論文を讀む人は、更に大正十三年七月發行の『東洋學報』に掲載した、拙稿「支那人間に於ける食人肉の風習」(本全集第二卷所收)を參考されたい。

 この四月二十七八日の諸新聞に、
目下露國の首都ペトログラードの食糧窮乏を極めたる折柄、官憲にて支那人が人肉を市場に販賣しつつありし事實を發見し、該支那人を取押へて、遂に之を銃殺せり。
といふ驚くべき外國電報が掲載されてある。私はこの電報によつて、端なくも、古來支那人間に行はるる、人肉食用の風習を憶ひ起さざるを得ないのである。
 一體支那人の間に、上古から食人肉の風習の存したことは、經史に歴然たる確證があつて、毫も疑惑の餘地がない。古い所では殷の紂王が、自分の不行跡を諫めた翼侯を炙とし、鬼侯を[#挿絵]にし、梅伯を醢にして居る。炙は人肉を炙ること、[#挿絵]は人肉を乾すこと、醢とは人肉を醤漬にすることで、何れも人肉を食することを前提とした調理法に過ぎぬ。降つて春秋時代になると、有名な齊の桓公、晉の文公、何れも人肉を食して居る。齊の桓公は、その嬖臣易牙の調理して進めた、彼の子供の肉を食膳に上せて舌鼓を打ち、晉の文公は、その天下放浪中、食に窮した折柄、從臣介之推の股肉を啖つて饑を凌いだ。漢楚交爭時代に、楚の項羽は漢の高祖の父太公を擒にし、之を俎上に置いて高祖を威嚇した。高祖は之に對して、幸分二我一杯羹一と對へてゐる。これらの應對は、食人肉の風習の存在を承認せずしては、十分に理會出來ぬことと思ふ。
 支那人の人肉を食するのは、決して稀有偶然の出來事でない。歴代の正史の隨處に、その證據を發見することが出來る。中に就いて尤も著るしい二三の實例を示さう。第一の例としては隋末の劇賊朱粲を擧げねばならぬ。彼は人肉を以て食の最美なるものと稱し、部下に命じ、至る所婦人小兒を略して、軍の糧食に供せしめて居る。唐末の賊首黄巣の軍も亦同樣である。黄巣の軍は長安沒落後、糧食に乏しく、毎日沿道の百姓數千人を捕へ、生ながら之を臼に納れ、杵碎して食に充てた。この時討手に向つた官軍は、賊軍を討伐するよりも、彼等の糧乏しきに乘じ、無辜の良民を捕へ、之を賊軍に賣り付けて金儲をしたといふ。隨分呆れた話であるが、支那兵の所行としては、あり得ることかも知れぬ。朱粲や黄巣の事蹟は、何れも『舊唐書』に見えて居る。また『五代史記』に據ると、五代の初に、揚州地方は連年の騷亂の爲、倉廩空虚となつた結果、人肉の需要が盛に起り、貧民の間では、夫はその婦を、父はその子を肉屋に賣り渡し、肉屋の主人は彼等の目前で之を料理いたし、羊豚と同樣に、店前で人肉を賣り出したといふ。
 更に南宋の初期には、金人の入寇により、山東・京西・淮南の諸路一帶にかけて、穀價暴騰せし爲、この方面の人々は、百姓も兵卒も盜賊も、皆人肉を食して口腹を充たした。當時人間を兩脚羊と稱した。人肉を羊肉と同一視した譯で…

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