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浅間噴火口
あさまふんかこう
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第四巻(小説Ⅳ)」 未来社
1965(昭和40)年6月25日
初出「文芸春秋」1938(昭和13)年12月
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2009-02-01 / 2014-09-21
長さの目安約 25 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

       一

 坂の上の奥まったところにある春日荘は、普通に見かける安易なアパートであるが、三つの特色があった。一つは、その周囲や庭にやたらと椿の木が植えこんであること。これは、経営者たる四十歳を過ぎた未亡人椿正枝の、感傷とも自負とも云える事柄で、はじめは椿の姓にちなんで春木荘と名づけられそうだったのが、春日荘となった代りに、多くの椿の植込が出来たのである。花時には、赤や白の一重や八重が美事だった。次には、室代が他の同類のアパートより少し高いこと。高いといっても一畳につき二十銭程度だろうが、これでも居住人選択のためには多少の役割をなした。第三には、一種の道徳が居住人全般に課せられていること。例えば、アパート内では禁酒であり、外泊の場合は必ず、予告するか電話をかけるかしなければならず、其他これに類する事柄である。女の独り者は、下等な妾か女給のたぐいだとして、居住を許されなかった。その代り、正枝は凡ての居住者を、道徳的には厳格に人情的にはやさしく、親身に世話してやった。月に一円女中に払えば、毎朝室の掃除もして貰えた。
 居住者の李永泰が、無断で三日も帰って来ず、何処へ行ったか分らなくなったことは、だから、春日荘にとっては稀有の事柄だった。
 正枝は女中のキヨを連れて、李永泰の室を検分した。
「毎日掃除をしてるんだから、ふだんの様子は知ってるでしょう。なにか変ったことはないか、よく見てごらんなさい。」
「はい。」とキヨは頓狂に声高な返事をした。
 八畳のうち一畳半ほどを、沓脱と簡単な炊事場とに切取った、正面一杯が硝子戸の室である。書棚、机、茶箪笥など、粗末ながらととのっていて、押入には、布団や支那カバンや行李、それからまた沢山の書物。殊に総合雑誌の類が堆高く積み重ねられ、小さな紙片が、総のように頁の間から差出ていた。丹念に読まれて所々に目印の紙片が貼りつけられてるものらしい。――それらの雑誌については正枝にも覚えがある。或る時、警察署の特別高等係という肩書の刷りこんである名刺を[#「名刺を」は底本では「名剌を」]持った訪問者があった時、李は長時間話しあっていたが、客を玄関に送り出して、それから正枝に云った。「思想のこと心配して来てくれたんです。いろいろ話してやると、喜んでくれました。その方面のこと、僕の方がよく知ってるんです。おばさん、来てごらんなさい。」そこで正枝が彼の室までついて行くと、頁の間々に紙片の貼りつけてある雑誌が沢山取り散らしてあり、彼はそれを指し示して自慢していた。それでも正枝はまだ不安心で、其後特高係がまたやって来た時、そっと李のことを尋ねてみると、なかなか勉強家で有望な青年らしい、との返事だった。客と李とは笑い声など立てて親しげな様子だった。
 室の中の有様を、正枝はひとわたり見検べたきりで、何物にも手を触れはしなかった。だが、柱に下って…

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