えあ草紙・青空図書館 - 作品カード


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早春
そうしゅん
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第四巻(小説Ⅳ)」 未来社
1965(昭和40)年6月25日
初出「苦楽」1947(昭和22)年5月
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2008-02-27 / 2014-09-21
長さの目安約 20 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 もともと、おれは北川さんとは何の縁故もない。街で偶然出逢っただけのことだ。
 牛の煮込み……といっても、おもに豚の腸や胃や食道、特別には肝臓と心臓、そのこま切れを竹串にさして、鉄鍋でぐらぐら味噌煮にしたものだが、その鍋をかこんでアルコールを飲むという、この頃たいへんはやっている安直な飲み屋が、近くの街角に一つあった。
 おれも時々鍋をつっつきに寄った。気むずかしそうな大人たちがいない場合は、コップ一二杯飲むこともあった。そこで、初めて北川さんに逢った。帽子はかぶらず、マントにちび下駄の姿で、髪を短かめに刈った頭がへんに大きく見え、浅黒くて艶のわるい顔は善良そうだった。年は三十五六で、飲みっぷりがよかった。鍋の物はあまり食べず、焼酎……つまりアルコールの薄めたのを、二杯ほどあおって、あとは清酒のお燗したのをうまそうに飲んだ。飲みながら店の親爺と話をした。
「身投げのことを、絵や文章には、真逆様に飛びこむように書いてあるが、あれは嘘だよ。男でも女でも、逆様になんかなかなか飛びこみはしない。せいぜい横っ倒しで、たいていは立ったままの姿勢さ。水泳の飛び込みとは違うからね。やっぱり怖いんだな。或る時、寒い所で、女が身投げをしたことがあった。飛びこんだのが池で、氷がはりつめてたもんだから、両足は水にはいったが、大きな尻が氷につかえて、どうにも身動きが出来ず、もがいてるところを救いあげられた、という話があるよ。」
「へえー、ほんとですか。」
「ああ、実話だよ。」
 そんな話をする彼を、おれは、文学者か画家かでもあろうと思った。――ところが違っていた。中学校の先生だった。もっとも、ちょっとした読物ぐらいは書いていたんだが。
 飲んでしまうと、御馳走さんと大きな声で言って、出て行った。
 おれは親爺に聞いた。
「あの人、金を払わないね。」
「今日は持っていないらしいよ。またこんど、と小さい声で言ったろう。持ってる時に、いっしょに払うよ。」
「それはいいなあ。おれもそうしよう。」
「お前なんか、だめだ。あぶなくってね。」
 そんなことでおれはどうやら彼を好きになったらしい。そして何度か出逢ってるうちに、彼のところに病人があって生魚に不自由して困ってることを知り、時々生魚を届けてやることにした。牛の煮込み屋から遠くない所で、静かな裏通りの古い小さな家だった。彼は……北川さんは、おれのような小僧っ子を信用して、五十円ぐらいずつ先渡ししてくれた。その五十円も無い時があった。
「今日は金がないよ。二三日して来てくれ。」
 それから二三日すると、ふしぎに金が出来ていた。もっとも、おれの方でも、北川さんところでは、口銭はいっさい取らないことにしていたし、煮込み屋の親爺と同じように、掛売りの気前も見せてやった。
 或る時、北川さんはおれに尋ねた。
「君は、本を読むことがあるかね。」
「そり…

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