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自由人
じゆうじん
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第四巻(小説Ⅳ)」 未来社
1965(昭和40)年6月25日
初出「芸術」1948(昭和23)年7月、9月、11月、1949(昭和24)年1月(未完)
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-07-19 / 2014-09-21
長さの目安約 141 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



悲しみにこそ生きむ
楽しさにこそ死なむ
 この二つの文句が、どうしてこんなにわたしの心を乱すのであろうか。二つが妖しく絡みあい、わたしの胸に忍びこみ、わたしの心を緊めつけて……誘うのである。いずこへ誘うのか。何の誘惑なのか。
 その文句を、わたしは思い違いしてるのではあるまいか、そんな気持ちがふっと湧くこともある。だけど、いいえ、わたしの思い違いではない。たしかにそうなのだ。あの人は、机の上の原稿用紙に、鉛筆でいたずら書きをしていた。鳶が鳴いていたので、片仮名で、ピーとか、ヒョロとか、ヒョロヒョロとか、そんなのが幾つも書き散らされてるうちに、とつぜん、悲しみにこそ、が二度つづいて、生きむ、生きむ、生きむ、と三度かさなり、それから、楽しさにこそ、が一度、そして、死なむ、死なむ、と二度で終った。たしかに、悲しみに死ぬるのでもなく、楽しさに生きるのでもない。いいえ、そんなこととは全く違う。
悲しみにこそ生きむ
楽しさにこそ死なむ
 わたしにはよく理解できないけれど、感じだけは分る。二つ別々なものではなくて、一緒のものなのだ。一つだけでは意味をなさない。ヘルメスの杖についてる、二つの翼……二つの蛇……。あの人にとって、それは、翼なのかしら、蛇なのかしら。どちらだって、つまりは、ヘルメスにとって同じなように、あの人にとっても同じなわけだ。けれども、わたしとしては……いえ、もうどちらでもよい。
 あれを、あの人は明らかに、わたしが見てることを知っていて、わたしに見せるために書いた。わたしは見た。それをあの人は知っている。けれど、わたしは何とも言わなかった。あの人も何とも言わなかった。
 直截に、簡明に、ぶしつけに、いろんなことを話せないのが、淋しい。お互に、愛し合ってることが分っておりながら、なぜそうなのであろうか。
 わたしはいろいろなものに囚われている……とも違う。いろいろなものに束縛されている……とも違う。そうだ。なにかきまりきったものの中にわたしは置かれているのだ。そういう所にわたしは置かれているのだ。だから、例えば……。ああ、例えばなどという言葉がなぜ必要なのかしら。それもまあいい。例えば、愛情の問題にしても、結婚という枠の中に封じこめられてしまうのだ。
 わたしにはいろいろな縁談があるらしい。あると言うよりは、周囲の人たちがそれを探し求めているらしい。母が時々、若い男の写真を見せて、それとなくわたしの意向をさぐろうとする。だけど、わたしに意見のありようはない。美醜の点にしても、ある水準以下は嫌だけれど、その水準だってどうにでもなる。映画俳優のブロマイドを見るのとは違って、愛情の問題なのだ。わたしはいつも、曖昧な微笑と冷淡な言葉とで、うっちゃることにしている。
 けれども、生きてる人間については、そうはいかない。家のお客さんの中や、弟の年上の知人の中には…

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