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大阪の反逆
おおさかのはんぎゃく
作品ID42853
著者坂口 安吾
文字遣い新字旧仮名
底本 「坂口安吾全集 05」 筑摩書房
1998(平成10)年6月20日
初出「改造 第二八巻第四号」1947(昭和22)年4月1日
入力者tatsuki
校正者深津辰男・美智子
公開 / 更新2009-06-19 / 2016-04-15
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 将棋の升田七段が木村名人に三連勝以来、大阪の反逆といふやうなことが、時々新聞雑誌に現れはじめた。将棋のことは門外漢だが、升田七段の攻撃速度は迅速意外で、従来の定跡が手おくれになつてしまふ(時事新報)のださうで、新手の対策を生みださぬ限り、この攻撃速度に抗することができないだらう、と云ふ。新らたなるものに対するジャーナリズムの過大評価は見なれてゐることだから、私は必ずしもこの評判を鵜のみにはしないが、伝統の否定、将棋の場合では定跡の否定、升田七段その人を別に、漠然たる時代的な翹望が動きだしてゐるやうな気がする。
 織田作之助の二流文学論や可能性の文学などにも、彼の本質的な文学理論と同時に、この時代的な翹望との関聯が理論を支へる一つの情熱となつてゐるやうに思はれる。
 織田は坂田八段の「銀が泣いてる」に就て述べてゐるが、私は、最初の一手に端歩をついたといふ衒気の方が面白い。第一局に負けて、第二局で、又懲りもせず、端歩をついたといふ馬鹿な意地が面白い。
 私はいつか木村名人が双葉山を評して、将棋では序盤に位負けすると最後まで押されて負けてしまふ。名人だなどと云つても序盤で立ちおくれてはそれまでで、立ち上りに位を制することが技術の一つでもあり名人たるの力量でもあるのだから、双葉の如く、敵の声で立上り、敵に立上りの優位を与へるのが横綱たるの貫禄だといふ考へ方はどうかと思ふ、といふことを述べてゐた。
 序盤の優位といふことが分らぬ坂田八段ではなからうけれども、第一手に端歩を突いたといふことは、自信の表れにしても軽率であつたに相違ない。私は木村名人の心構への方が、当然であり、近代的であり、実質的に優位に立つ思想だと思ふから、坂田八段は負けるべき人であつたと確信する。坂田八段の奔放な力将棋には、近代を納得させる合理性が欠けてゐるのだ。それ故、事実に於て、その内容(力量)も貧困であつたと私は思ふ。第一手に端歩をつくなどといふのは馬鹿げたことだ。
 伝統の否定といふものは、実際の内容の優位によつて成立つものだから、コケオドシだけでは意味をなさない。
 然し、そのこととは別に私が面白いと思ふのは、八段ともあらう達人が、端歩をついたといふことの衒気である。
 フランスの文学者など、ずいぶん衒気が横溢してをり、見世物みたいな服装で社交界に乗りこむバルザック先生、屋根裏のボードレール先生でも、シャツだけは毎日垢のつかない純白なものを着るのをひけらかしてゐたといふが、これも一つの衒気であり、現実の低さから魂の位を高める魔術の一つであつたのだらう。
 藤田嗣治はオカッパ頭で先づ人目を惹くことによつてパリ人士の注目をあつめる方策を用ひたといふが、その魂胆によつて芸術が毒されるものでない限りは、かゝる魂胆は軽蔑さるべき理由はない。人間の現身などはタカの知れたものだ。深刻ぶらうと、茶化さうと、…

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