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死体の匂い
したいのにおい
作品ID4287
著者田中 貢太郎
文字遣い新字新仮名
底本 「貢太郎見聞録」 中公文庫、中央公論社
1982(昭和57)年6月10日
入力者鈴木厚司
校正者多羅尾伴内
公開 / 更新2003-09-01 / 2014-09-17
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 大正十二年九月一日、天柱拆け地維欠くとも言うべき一大凶変が突如として起り、首都東京を中心に、横浜、横須賀の隣接都市をはじめ、武相豆房総、数箇国の町村に跨がって、十万不冥の死者を出した災変を面のあたり見せられて、何人か茫然自失しないものがあるだろうか。
 世俗の怖れる二百十日の前一日、二三日来の驟雨模様の空がその朝になって、南風気の険悪な空に変り、烈風強雨こもごも至ってひとしきり荒れ狂うていたが、今思うとそれが何かの前兆でもあるかのように急にぱったり歇んで、気味悪いほどに澄んだ紺碧の空が見え、蒔きずての庭の朝顔の花に眼の痛むような陽の光が燃えた。ちょうど箪笥の上に置いた古い枕時計が五分遅れの十一時五十分を指していた。
 私は二階で客と話していた。私も客も煙草を点けたばかりのところであった。黒みだって吹き起って来る旋風の音のような、それで地の底に喰い入って往くような音がしたので、煙草を口元から除ってその物の音を究めようとする間もなく、家がぐらぐらと揺れだし、畳は性のあるものが飛び出そうとでもするかのように、むくむくと持ちあがりだした。私は驚いてその畳の上をよろよろと歩いたが、その瞬間、妻と子供を二階へあげようと思いだした。で、そのまま下へ駈けおりた。
 妻は玄関口へべったり坐って、左の手で柱に捉まり、右の手で末の女の児を抱き寄せるようにしておろおろしている傍に、八つになる女の児は畳の上に両手を這うように突いて泣いていた。上の二人の子供は暑中休暇に土佐へ往ってまだ帰っていなかったので、手足纏いがすくなかった。末の女の児は赤いメリンスの単衣を着ていた。私はいきなり末の児に手をかけて、妻と二人で掻きあげるようにして抱き、姉の児を押しやり押しやり先に立てて二階へあがった。
 家はまだゆらゆらと揺れていた。妻ははずれかけた次の室との境の襖の引手に手をかけてそれに取りつこうとしたが、襖がはずれて取りつけなかった。が、その内に地の震いは小さくなって来た。私はその時客のいないことに気がついたが、地震の小さくなった間に、妻や子供を外へ出さなくてはならないという考えの方へ気を取られて、それ以上客のことを考えることができなかった。その客は私のいない間に簷から飛んで右の足首をくじいていた。私は妻をうながして自分で末の児を抱き、妻に姉の児の手を曳かして、おりて玄関口へと往ったが、妻や子供を先に出して自分が後から出ないと危険があるような気がしたので、妻に末の児を負ぶわし姉の児の手を曳かして先へ出し、自分は後から出て往った。
 私の家の門の出口の左角になった古い木造のシナ人の下宿は、隣の米屋や靴屋の住んでいる一棟が潰れて押されたために門の内へ倒れかかっていた。地の震えは後から後からとやって来た。私は妻と子供をすぐ近くの寄宿舎の庭へと伴れて往った。そこは奈良県の寄宿舎であった。私はそれから足…

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