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「吶喊」原序
「とっかん」げんじょ
作品ID42933
著者魯迅
翻訳者井上 紅梅
文字遣い新字新仮名
底本 「魯迅全集」 改造社
1932(昭和7)年11月18日
入力者京都大学電子テクスト研究会入力班
校正者京都大学電子テクスト研究会校正班
公開 / 更新2008-07-07 / 2014-09-21
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 わたしは年若い頃、いろいろの夢を作って来たが、あとではあらかた忘れてしまい惜しいとも思わなかった。いわゆる囘憶というものは人を喜ばせるものだが、時にまた、人をして寂寞たらしむるを免れないもので、精神の縷糸が已に逝ける淋しき時世になお引かれているのはどういうわけか。わたしはまるきり忘れることの出来ないのが苦しい。このまるきり忘れることの出来ない一部分が今、「吶喊」となって現われた来由である。
 わたしは、四年あまり、いつもいつも――ほとんど毎日、質屋と薬屋の間を往復した。年齢は忘れたが、つまり薬屋の櫃台がわたしの脊長けと同じ高さで、質屋のそれは、ほとんど倍増しの高さであった。わたしは一倍も高い櫃台の外から著物や簪を差出し、侮蔑の中に銭を受取り、今度は脊長けと同じ櫃台の前へ行って、長わずらいの父のために薬を買った。処方を出した医者はいとも名高き先生で、所用の薬は奇妙キテレツのものであったから、家へ帰ると、またほかのことで急がしかった。寒中の蘆の根、三年の霜を経た甘庶、番い離れぬ一対の蟋蟀、実を結んだ平地の木……多くはなかなか手に入れ難いもので、それでもいいが、父の病は日一日と重くなり、遂に甲斐なく死亡した。
 誰でも痩世帯の中に育った者は、全く、困り切ってしまうことはあるまい。わたしは思う。この道筋に在る者は大概他人の真面目を見出すことが出来る。わたしはN地に行ってK学校に入るつもりだ。とにかく変った道筋に出て、変った方面に遁れ、縁もゆかりもない人に手頼ろうと思う。母親はわたしのために八円の旅費を作って、お前の好きにしなさいと言ったが、さすがに泣いた。これは全く情理中の事である。というのは、当時は読書して科挙の試験に応じるのが正しい道筋で、いわゆる洋学を学ぶ者は、路なき道に入る人で、霊魂を幽霊に売渡し、人一倍も疎んぜられ排斥されると思ったからである。まして彼女は自分の倅に逢うことも出来なくなるのだ。しかしわたしはそんなことを顧慮していられる場合でないから、遂にN地に行ってK学堂に入った。この学校に来てからわたしは初めて世の中に別に物理、数学、地理、歴史、図画、体操などがあることを知った。生理学は教えられなかったが、木版刷の全体新論や科学衛生論というようなものを見て、前の漢方医の議論や処方を想い出し、比較してみると、支那医者は有意無意の差こそはあれ、皆一種の騙者であることがわかった。同時にだまされた病人と彼の家族に対し、盛んなる同情を喚び起し、また飜訳書に依って日本の維新が西洋医学に端を発したことさえも知った。
 この何ほどかの幼稚な知識に因って、わたしの学籍は、後々日本のある田舎の医学専門学校に置かれることになった。わたしの夢ははなはだ円かであった。卒業したら国へ帰って、父のように誤診された病人の苦しみを救い、戦争の時には軍医となり、一方には国人の維新に対する…

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