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餅のタタリ
もちのタタリ
作品ID42960
著者坂口 安吾
文字遣い新字新仮名
底本 「坂口安吾全集 14」 筑摩書房
1999(平成11)年6月20日
初出「講談倶楽部 第六巻第一号」1954(昭和29)年1月1日
入力者tatsuki
校正者藤原朔也
公開 / 更新2008-06-04 / 2014-09-21
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     餅を落した泥棒

 土地によって一風変った奇習や奇祭があるものだが、日本中おしなべて変りのないのは新年にお餅を食べ門松をたてて祝う。お雑煮の作り方は土地ごとに大そうな違いはあるが、お餅を食べ門松をたてて新春を祝うことだけは日本中変りがなかろうと誰しも思いがちである。
 意外にも、新年にお餅も食べず門松もたてない村や部落は日本の諸地にかなり散在しているのだが、上州には特に多い。その上州でもある郡では諸町村の大部分が昔から新年を祝う風習をもっていない。それでも、ま、新年のオツキアイだけは気持ばかり致しましょう、というわけか、三※[#小書き片仮名ガ、295-16]日だけウドンを食べる。
 もともと上州の人たちは好んでウドンをたべる。農村では米を作りながら自分はウドンの方を喜んで食ってるという土地柄であるから、新年にウドンを食ってもふだんと変りがないようなものだ。むしろ新年のウドンの方がふだんのウドンよりもまずいぐらいで、テンプラウドンやキツネウドンにくらべると大そう風味が悪いような特別な作り方のウドンを三※[#小書き片仮名ガ、295-20]日間というもの三度々々我慢して食べてる。まったく我慢して食べてるとしか云いようがないほど味気ない食膳で、ふだんの方がゴチソウがあるのだ。要するにその食卓から新年を祝う気分を見ることはできなくて、むしろ一ツ年をとって死期が近づいたのをシミジミ観念して味っているような食卓なのである。
 どうして新年にウドンを食うかということについては昔からいろいろ云われているが、いずれも納得できるものではない。むしろ、上州ばかりでなく、日本の諸地では昔から新年にウドンを食っていたのかも知れない。餅をくって門松をたてる風習の方が後にできてやがて日本中に流行してしまったのかも知れず、そのとき意地ッぱりの村があって、オレだけはウドンをやめないとガンバリつづけたのが今に残ったのかも知れない。上州にはそういう意地ッぱりの気風があるようだ。
 さて、そういう村のあるところに、日当りのよい前庭に百坪もある円い池のある農家があった。その池には先祖からの鯉がいっぱい泳いでいて、それだけでも一財産だと云われているほどの池だから、この家はいつのころからか円池サンという通称でよばれるようになっていた。
 年の暮も押しつまって明日は新年という大晦日の夜更けに、円池の平吉という当主が便所に立ったところ、その晩はカラッ風のない晩で、そういうときのシンシンとした寒さ静けさはまた一入なものだ。思わず足音を殺すようにして廊下を歩いていると、庭でコツンバシャンとかすかな音がする。立ち止って耳をすますと、どうも氷をわる音だ。まだ氷が厚くないらしく、竹竿ようのもので誰かが池の氷をわっているようである。
「さては鯉泥棒だな。大晦日だというのに商売熱心の奴がいるものだ。大方正月のオカ…

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