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一家言を排す
いっかげんをはいす
作品ID42988
著者坂口 安吾
文字遣い新字旧仮名
底本 「坂口安吾全集 02」 筑摩書房
1999(平成11)年4月20日
初出「新潟新聞 第一九九六一号〈夕刊〉」1936(昭和11)年11月20日付(19日発行)
入力者tatsuki
校正者今井忠夫
公開 / 更新2006-01-13 / 2014-09-18
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私は一家言といふものを好まない。元来一家言は論理性の欠如をその特質とする。即ち人柄とか社会的地位の優位を利用して正当な論理を圧倒し、これを逆にしていへば人柄や地位の優位に論理の役目を果させるのである。
 非論理が論理を圧倒するといふ微妙な人間関係は古来わが政治屋に珍重された処世術で、英雄豪傑の遺風であり、恰も土佐犬がテリヤを圧倒するかの如き非理智的な動物的人関係の一つである。
 これは論理的訓練の不足した社会における当然な現象であらうけれど、特に我国においては非論理性を不当に評価することが甚しいやうである。我国で大人物といへば茫洋として掴まへどころのない人間といふことを不可欠の条件とし、即ち性格的な非論理性を珍重する。
 なるほど人間の存在それ自らが解きがたい一つの矛盾撞着であることも事実であらうが、かゝる存在それ自らとしての矛盾撞着は非論理的なものではなく、論理化された矛盾であつて、充分に知的なものであり、政治家的処世術としての非論理性とは自らその趣きを異にする。充分論理的であるべき筈の無産派政治家すら大人物型的非論理性に溺れやすい状態で、我々の理知をも感情をもひいては全存在を冷静な知性を凝らして観察し一応論理化することは相当至難なことである。教壇的な博識によつては及び難いことで、日頃休みない省察の眼を自らに向け冷酷にして誠実なメスを自らの内部に向けて切り刻むことがなくては、かゝる論理性は得がたいのである。
 菊池寛の「話の屑籠」は現今文壇における一家言の代表的なものであつて、一部識者の好評を得てゐることは、我国の教養がその真実の論理的訓練に不足してゐることを明かにしてゐるにすぎない。「話の屑籠」には論理性がないのである。のみならずその非論理性を利用して逆に読者の論理性を圧倒しねぢふせ、却つて自説を特殊の論理として通用せしめやうとする、恰も政治家がその性格的非論理性によつて人を圧倒する術を言論の上に及ぼしたかの感がある。
 現代においては論理が非論理に圧倒され易い。然しそれは論理自体が無力のわけではなく、現代の論理のみが無力なのである。我々は論理的訓練が不足だ。意志にも感情にもそして自我の深奥にまで知性の省察が行きとゞいてゐないのである。
 特に作家においては、画家のデッサンにおける如く、論理の訓練が必要であるのに、近頃は一種反動的な傾向として、非論理によつて論理を圧倒しやうとする努力が横行し、通用しがちである。
 我々の理知的努力と訓練により、また人間性の深部に誠実な省察を行ふことにより、早晩我々の世界からかゝる動物的な非論理性を抹殺し、肉体的な論理によつて正当な論理を瞞着し圧倒することの内容の空虚を正確に認識しなければ、人間の真実の知的発展は行はれ得ない。
 過去において社会制度は幾度か変遷した。然し人間は殆ど変りはしなかつた。漸く変りかけてゐるので…

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