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旧作
きゅうさく
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「青眉抄・青眉抄拾遺」 講談社
1976(昭和51)年11月10日
入力者鈴木厚司
校正者小林繁雄
公開 / 更新2004-05-16 / 2014-09-18
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 ある人が、こんなことを言っていました。
 先日文壇の大家の某氏にあったとき、談たまたま作品のことに及んだ折り、私はその作家の十五、六年前に問題になった小説のことを話題にして、
「こういう時局に、あの小説をお考え直しになると、あなたの作品中から抹殺したいお気持ちになりませんか」
 ときいたところ、その大家は、
「とんでもない。あの作品は私の全作品中どれよりもすぐれた作で、今でもあれを書いたことを誇りとしていますよ」
 と、こうぜんと言い放たれたそうです。
 その作品というのは、当時、自由華やかな時代の作風で、とても今の時局には読み難いものなのでした。

 しかし、その大家は、過去の作品だからと言って、自分の作を軽々には取り扱わず、却って、
「あれこそ、自分のもっとも会心の作」
 であると言い切ったところに、この大家の偉さがあるのではないでしょうか。
 ともすれば時局におもねって、
「あれはどうも……何しろ昔の作品ですからネ……」
 などと空うそぶいている便乗作家の多い現代の中にあって、右の作家の態度こそ、
「さすがは、一時代の大家となる人」
 と思わせるものがあります。

 でも、ずっと以前の作が箱書に廻り、それが拙い絵であったりすると、
「これはどうも……何しろ若描きも若描き、まだ世の中へ出ないときの作ですから」
 と言って箱書をしない人があるときいています。
 さきの文壇の某大家の言と較べて、これほど自らを冒涜する言葉はないと思います。

 画家――大家となっている人でも、その昔は拙い絵をかいていたのに違いありません。
 素晴しい、大成の域に達した絵をかくには、それ相当の苦労は必要であり、幾春秋の撓まない精進が要る訳です。
 生まれながらにして、完成された芸術を生むということはあり得ません。
 してみれば、現在大家でも、そのむかし拙いもののあるのは当然のことで、少しも卑下するところはありません。
 むしろ、その時代の幼稚な絵を大切にしてくれて箱書をもとめる人の気持ちを有難く受けとらねばなりますまい。
 下手な時代は下手な時代なりに、一生懸命の努力をしている筈で、それはそれでいい筈です。
 ことによると、大家となった現在よりも、火花を散らして描いたものかも知れないのです。

 小松中納言として有名でした、のちの加賀百万石の大守前田利常公が、ある日近習の者の話をきいていられました。
 近習のひとりの某が言いました。
「何々殿の息子の某はなかなかの才物で、年が若いに似ず四十歳くらいの才覚をもっている。あれは将来恐るべき仁になるに違いない」
 すると利常公が、
「その者は今年いくつか」
 と、きかれた。十八歳にございますと件の近習が答えると、利常公は、
「さてもさてもうつけな話かな。人はその年その年の分別才覚があってこそよきものを、十八歳にして四十歳の分別あると…

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