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些細な事件
ささいなじけん
作品ID43019
著者魯迅
翻訳者井上 紅梅
文字遣い新字新仮名
底本 「魯迅全集」 改造社
1932(昭和7)年11月18日
入力者京都大学電子テクスト研究会入力班
校正者京都大学電子テクスト研究会校正班
公開 / 更新2008-07-18 / 2014-09-21
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 わたしは在所から都の中に飛込んで来て、ちょっとまばたきしたばかりでもう六年経ってしまった。その間、耳にもし眼にも見たいわゆる国家の大事というものは、勘定してみるとずいぶん少くないが、わたしの心の中には何の跡方も残らない。もしその事について影響を説けと言ったら、ただわたしの悪い癖を増長させるだけのことだ。――実を言えば、これがわたしをして日に日に見るに足らない人間ならしめているのだ。
 だがここに一つの小さな出来事があって、それがわたしにとってはかえって意義があり、わたしを悪い癖の中から引放し、今に至っても忘れることの出来ないものである。
 民国六年の冬、北風が猛烈に吹きまくった。その頃わたしは仕事の都合で毎朝早く往来を歩かなければならなかった。通りすじにはほとんど人影を見なかったが、しばらくしてやっと一台の人力車をめっけ、それを雇ってS門まで挽かせた。まもなく風は小歇みになり、路上の浮塵はキレイに吹き払われて、行先きには真白な大道が一すじ残っていた。車夫は勢込んで馳け出し、S門に近づいた時、車はたちまち人を引掛けてふらふらと挽き倒した。
 躓いたのは白髪交りの一人の女で著物はひどく破れていた。彼女は車道の隅から車の前を突然突切ろうとしたので、車夫はこれを避けたが、彼女の破れた袖無しに釦がなかったため、風に煽られて外に広がり、梶棒に引掛った。幸に車夫の方で素早く足を留めたからよかったものの、でなければ彼女は大きな飜筋斗を一つ打って、ひっくりかえり、頭から血を出したことだろう。
 彼女は地に伏した時車夫は足を留めた。
 わたしは、この老女が怪我した様子も見えないし、ほかに見ている人もないから、余計なことして附け込まれ、手間を取っては困ると思い
「何でもないよ。早く行ってくれ」
 と車夫を促し立てた。車夫は肯き入れず――あるいは聞えなかったかもしれぬ――轅を下におろし、その老女をいたわり扶け起し、身体を支えながら彼女に訊いた。
「どうかなさいましたか」
「突傷が出来ました」
 わたしの見たところでは彼女はふらふらと地に倒れて怪我するはずもないのに、甘くすれば附上る、本当に憎らしい奴だ、車夫もまた余計なことして自ら苦労を求めているのだから勝手にしやがれ、と思った。しかし車夫は老女の言葉を聞くと少しも躊躇せず、そのまま彼女の臂を支えて一歩一歩先へ進んだ。
 わたしは不思議に思って前の方を見ると、そこに巡査の派出所があった。大風の後で外には誰一人見えない。あの車夫があの老女を扶けながらちょうど大門の方へ向って歩いている。
 わたしはこの時突然一種異様な感じを起した。全身砂埃を浴びた彼の後影が、刹那に高く大きくなり、その上行けば行くほど大きくなり、仰向いてようやく見えるくらいであった。しかもそれはわたしに対して次第々々に一種の威圧になりかわり、果ては毛皮の著物の内側に隠…

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