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プロレタリア文学論
プロレタリアぶんがくろん
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「芥川龍之介全集 第十二巻」 岩波書店
1996(平成8)年10月8日発行
入力者もりみつじゅんじ
校正者松永正敏
公開 / 更新2002-10-08 / 2014-09-17
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 こゝではプロレタリア文学の悪口をいふのではない。これを弁護しやうと思ふ。しかし私は一般にブルヂヨア作家と目されてゐる所より、お前などが弁護する必要がないといはれるかも知れない。
 プロレタリア文学とは何であるか。これには色々の人がそれ/″\異つた見解を述べてゐるが、私はプロレタリア文明の生んだ文学でブルヂヨア文明の生んだブルヂヨア文学と対比すべきものであると思ふ。しかし現在の社会にはプロレタリア文明は存しない故にその文明に依つて生れたプロレタリア文学はない筈である。故に何か外にあてはまるものはないかといへば、同じブルヂヨア文明の生んだ文芸の中の一つをプロレタリア文学と見ることであらう。でこゝに同じ文明の下にあつてもその作家次第で、プロレタリア文学ともブルヂヨア文学ともなるのである。即ちプロレタリアの作家が作つたものがプロレタリア文学である。しかし作家のプロレタリアであるかないかは中々考察するに至難でプロレタリア文学の作家といはれてゐる彼のバアナードシヨオの如きは中々豪奢な生活をしてゐて日本のブルヂヨア作家よりもブルヂヨア的な生活をしてゐる。シヨオの外に、さういふ生活をしてゐるプロレタリア文学者は大陸に多くゐる筈である。故に作品の中にプロレタリアの生活を書いてゐるかゐないかによつてブルヂヨア文学とプロレタリア文学が区別さるべきであらうか。これも疑問である。シヨオのものにはプロレタリアの生活が表向きに書かれてゐない。出てくる人物は大抵ブルヂヨア若しくは中産階級である。しかし彼の作品を目してプロレタリア文学といふかといへば、人物や生活はプロレタリアのそれでなくても背後にブルヂヨア生活等の崩壊が暗示されてゐるからである。従つてプロレタリア文学とブルヂヨア文学との区別は作者や題材によつてできるものではない。即ち作者の態度で決定されるものであらう。作者がプロレタリアの精神に反対か賛成かで分たれるものである。而してプロレタリアの精神にそれは表向きでなくても味方である作者の描いたものは勢ひプロレタリア文学である。しかしさう一概に黒と白といふやうには行かないものである。黒と白の外に赤や青の色もあるやうにプロレタリア精神にも反対せず味方でもないといふ中間的な立ち場もある。而してこの立ち場はブルヂヨア精神に対しても同様である。又文学の中の俳句などはたとへ作者がプロレタリアの精神に味方するといつても、その句の中にプロレタリアの精神を高調することはできない。又音楽でも軍歌のやうなものでプロレタリアの行進曲でも作れば一寸プロレタリアの音楽のやうに受けとれるがそれは軍歌であつて音楽の範囲外にある。かういふ風に芸術方面に於てその形式、本質のため必然的にプロレタリアの精神に味方しそれを表現できないものがある。この点自由であるといはれてゐる小説、戯曲でも恋愛を中心としたもので同時にプロレタリ…

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