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伯林の落葉
ベルリンのおちば
作品ID43087
著者岡本 かの子
文字遣い新字新仮名
底本 「世界紀行文学全集 第七巻 ドイツ編」 修道社
1959(昭和34)年8月20日
入力者門田裕志
校正者田中敬三
公開 / 更新2006-05-02 / 2014-09-18
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 彼が公園内に一歩をいれた時、彼はまだ正気だった。
 伯林にちらほら街路樹の菩提樹の葉が散り初めたのは十日程前だった。三四日前からはそれが実におびただしい速度と量を増して来た。公園は尚更、黄褐色の大渦巻きだった。彼は、始め街をしばらく歩いて居た。こまかい菩提樹の葉が粉のように顔や肩や足元に散りかかった。それはひそかに無性な触覚の気安さから一たび風が吹き出すと、吹雪のように中空に、地上に舞い立ち渦巻くあわただしさと変った。だが、結局高い澄み切った青空の下で北欧の中秋の好晴の日は静粛な午後を保っていた。
 彼は街を足駄で歩いて居た。堅く尖った足駄の朴歯が、世界一堅固な伯林の道路面に当って端的な乾いた反動の音をたてた。その音は、外部に発しないで、一種の確実さをもって、彼の足部から彼の黒い熱塊のような苦痛に満ちた頭部へ衝き上った。程よい衝動は彼の苦痛に響いていくらかの慰撫となった彼は落葉の層をなるだけ除けて、堅い舗道面の露出して居る部分を殆ど、無意識に拾って歩いて居た。
 何故彼の日本の恋人が、彼を裏切って他の恋人に走ったということが確実に判った朝、彼は、彼の恋人のその宣言のような手紙を受取って読んだ瞬間つと立ち出でて、伯林の仲秋の街路へ出たのか彼にもはっきり判らなかった。そして、その時、殆ど何ものかに教えられたように、彼が二月前日本を発つ時、彼の恋人が、
 ――たまに公園でも散歩なさる時、おはきなさいまし。
 と、トランクへ入れて呉れた朴歯の下駄を、取り出して穿いたのかも彼には判らなかった。彼はただ歩きに歩いた。
 彼は伯林市の中央チーア公園に行き当った。
 公園にうず高く落ち敷く落葉、落ちる前の乾燥した黄褐色の木の葉を盛り上げた深い森林――この際、彼には何か神秘的な特殊性を包蔵する境区として結局はこの境区の何処かに彼の一寸ものに触れれば吼え出し相な頭の熱塊を溶解してしばらく彼の身心の負担を軽くして呉れる慰安の場所もあるように思えた。
 下駄の歯の根に血を持つような執拗な欲求をこめて彼はざくりと公園の落葉の堆積に踏み入った。下駄の歯は落葉の上層を蹴飛ばした。やや湿って落ち付いた下層の落葉は朽ちた冷たい気配と共に彼の足踏みを適当に受け止めた。
 森へはいって彼が一番先に遇ったのは軽装した親子の三人連れだった。男の子と女の子だけは彼にはっきり認識出来た。だが親は男親か女親か認識しなかった。彼の網膜に親らしい形だけ写った。それが凝結した彼の脳裡の認識にまで届かなかった。男の子は細い線状にくずれ落ちる落葉を短いステッキで縦横に截り乍ら歩いて居た。しゃっ、しゃっ、落葉の線条を截る男の子の杖の音が、彼の頭のしんの苦痛の塊に気持ちよく沁みた。日曜の午前の教会へ行く人が男女五六人通り合せた。樹立ちの薄れた処なので、その人達が停ち止って彼を不審相に見る様子がはっきり判った。彼は下駄…

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