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安吾巷談
あんごこうだん
副題10 世界新記録病
10 せかいしんきろくびょう
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「坂口安吾全集 08」 筑摩書房
1998(平成10)年9月20日
初出「文藝春秋 第二八巻第一三号」1950(昭和25)年10月1日
入力者tatsuki
校正者宮元淳一
公開 / 更新2006-02-19 / 2014-09-18
長さの目安約 28 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 スポーツというものは自らたのしむ境地で、それ自体に好戦的な要素はないものだ。国際競技とか、対校試合とかいうのも、世界の現状が国家単位であったり、チームが学校に属しているからの便宜的な区分で、スポーツは本来、個人的なもの(チームをも個とみて)である。現状に於てもスポーツの最高エベントは国際試合に限るわけでなく、ウインブルトンの庭球、又はプロ・ボクシングの世界選手権試合に於けるが如く、人種、国家の如何をとわず、最高エベントが個人的に争われている例も少くはない。年々アメリカで行われていた千五百米のインドアレース(陸上)なども、オリムピックのレース以上に豪華な大レースを展開するのが例で、こういうレースの在り方は選手がプロ化する危険はあるが、スポーツ本来としては、このように個人的に争わるべき性質のものだ。
 スポーツも勝負であるから、勝敗を争うのは当然であるが、それと同時に、練習の結果をためしている賭の要素が大きい。練習をつみ、その技術に深入りするほど、賭に打込む情熱も大きなものになる。偶然にまかせるルーレットの類とちがって、練習というものは合理的なものだ。いや、力というものを技術によって合理化し、ほぼ、あますところなく合理化してしまうのが、訓練、又は、練習というものなのである。もう一つ、その上に、試合に際して、相手とせりあって発する場合の力というものがある。つまり、勝負強いとか、勝負師の力があるとか云われているものが、これだ。そして、これが、賭というものなのである。
 吉岡が十秒三のレコードを何度もだした。だからメトカルフとせり合って一着になる可能性があると時計から割りだしたって、どうにもならない。本当の勝負というものはタイムではなくて、相手が自分より一米出ているから、これを抜いてでる、これを力といい、レースという。吉岡は百米を何十歩だかで走り、そのきまった歩数で走る時によいレコードがでるというようなことを言っていたが、そのような独走的な、又、無抵抗なものは、単に机上の算数であって、力というものではない。レースは相手とせりあうことによって、相手をぬいて行く力を言うのである。吉岡は決勝にものこらなかった。
 水上競技も、古橋の出現までは、時計をたよりに勝負の力というものを忘れていた。タイムで比較して、勝つ、勝つ、と云いながら、四百米では、勝ったことがない。バスタークラブとか、メディカの力というものを忘れていたのである。日本の水泳選手で、アメリカのお株をうばって、レースの力というものを見せてくれたのは古橋だ。今度の日米競泳でも、古橋は勝負強さを見せてくれた。タイムの問題ではなくて、相手が自分の前にいるから、これを抜く、という力なのである。日本は古橋一人だが、アメリカの選手は概ね時計の選手ではなくて、レースの選手なのだ。負けたとはいえ、古橋をタッチの差まで追いつめたマク…

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