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幸徳秋水と僕
こうとくしゅうすいとぼく
副題――反逆児の悩みを語る――
――はんぎゃくじのなやみをかたる――
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「近代日本思想大系10 木下尚江集」 筑摩書房
1975(昭和50)年7月20日
初出「朝日新聞」1933(昭和8)4月15~20日
入力者林幸雄
校正者松永正敏
公開 / 更新2006-10-21 / 2014-09-18
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

      一

 君よ。明治三十四年、僕が始めて社会党の創立に関係した時、安部磯雄、片山潜の二君は、年齢においても学識においても、長者として尊敬して居たが、親密な友情を有つて居たのは、幸徳秋水であつた。彼は僕より二つ年下であつた。幸徳を友人にしてくれたのは石川半山だ。
 僕がまだ二十代で、故郷で弁護士をして居た時、石川は土地の新聞主筆として招かれて来た。彼が好んで自分の師友の評判をする時、「幸徳秋水」の名前を頻りと吹聴した。
 石川が始めて故郷岡山を出て東京へ遊学の折、当時東洋のルソーと謳はれて居た中江兆民を、大阪に訪問した。その兆民先生のムサくるしい玄関で、彼は始めて幸徳を見た。幸徳はなた豆煙管をたゝいて、時勢を論じたさうだ。明治二十年の冬、保安条例で兆民が東京を逐はれた時、当時十七歳の幸徳も、師匠に同伴して大阪へ行つたものと思はれる。
『兆民門下の麒麟児だよ』
と、石川は盛んに幸徳を推称した。
 僕が東京へ出て「毎日新聞」へ入社したのは、石川のお蔭であつた。

      二

 三十二年の春、僕が上京後間も無い頃、或朝石川の下宿で話して居ると、襖の外に、
『石川――』
と、やさしく呼ぶ声がした。
『はいれ』
と、石川が大きな声でいふと、スウと襖が開いた。
 見ると、色は小黒いが眉目の秀麗な、小柄な若い男が立つて居る。僕を見て、躊躇して居る様子、
『はいれ』
と石川が又呼んだ。
『可いか――』
というたその口元に、妙に処女のやうな羞恥がもれた。
 これが幸徳であつた。彼は文章と識見とで、当時既に「万朝報」紙上の名華であつた。
 僕に幸徳の事を口を極めて称讃した如く、石川は、僕の事をも幸徳に、輪に輪をかけて話して置いたものらしい。初対面ながら、古馴染のやうな気がしてすつかり打ち解けて語ることが出来た。
 時は日清戦争の後、支那の償金がはいつて、事業熱の勃興と共に、始めて日本に「労働問題」といふ熟語が伝はり、職工の間に組合組織が競ひ起る一方、学者思想家の間には、「社会問題」が盛んに論議される新時代であつた。
 僕の入社した「毎日新聞」でも、社長の島田三郎先生が、去年の暮、旧い関係の政党を脱退して自由独立の身となり、言論文章で新機運を呼び起こさうといふ意気溌剌の折柄で、「青年」「労働者」「婦人」これが先生の三要目で、現に「青年革進会」の会長であり、たしか活版工組合の会長でもあつたやうに記憶する。
 その頃、芝園橋側のユリテリヤン協会といふは、仏教、耶蘇教の自由家若くは脱走家の団体で、会長の佐治実然といふはもと本願寺派の才人、村井知至、安部磯雄などいふは、組合教会の秀才であつた。この協会の中にまた「社会主義研究会」といふのが出来て、これには協会外の人も加入して居た。幸徳もその会員の一人で、僕にも入会を勧めたが、僕は「研究会」といふやうなものは嫌ひだというて、拒…

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