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性格としての空間
せいかくとしてのくうかん
副題――理論の輪郭――
――りろんのりんかく――
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「戸坂潤全集 第一巻」 勁草書房
1966(昭和41)年5月25日
初出「思想 第七二号」
入力者矢野正人
校正者狩野宏樹
公開 / 更新2012-03-23 / 2014-09-16
長さの目安約 40 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 問題を知識――認識――の範囲に限ろうと思う。尤も始めから知識の世界と知識でない世界とを区別しておいて、その上で知識の世界の外へ一歩も出ないように注意しようというのではない。そのためには恐らく吾々は完成した体系を予め持っていなければならないであろう。云うまでもなく吾々はそのような結論から出発することは出来ない。凡ての出来上っている諸問題をば同じ資格を有つ隣人として公平に待遇しようとするならば、却って何かの問題に立ち入る手懸りを失って了うであろう。こういう危険を避けるために問題を知識の世界に限ることが今の場合私にとって必要なのである。
 知識という概念がまず疑問であるだろう。けれどもそれを何程か決定することこそ私の目的なのであるから、次の私の言葉を承認出来る程度の常識概念として、この概念が人々に通用するならばそれで事は足りる。そこで私はこの概念に就いて次のように云いたい――知識には二つの徴表がある、第一は吾々が知識によって通達するものと考えられる実在、第二はかかる実在が通達されると思われる通路。そしてこの第二の通路が又特に知識の名を以て呼ばれるということ。ここに人々は古典の内から二つの言葉を選んでこの二つを云い現わすことに思い付くであろう。それは「存在としての存在」と「真理としての存在」との区別である。尤もこの場合真理という言葉が二重に用いられる代りに存在という言葉が二度使われている。けれども二つの区別を与えるのに之は何の差閊えもない。一方に於て存在としてあるもの、他方に於て真理としてあるもの、実在とそれへの通路。人々は兎も角もこの関連を許さないわけには行かないであろう。

 今、実在に就いて先ず一般的に語ることが私の目的ではない。そして恒に、そのような種類のことは必ずしも必要ではない。近世の形而上学は実体に於て乃至実体に就いて――このような形而上学にとって実在は即ち実体であった――少くとも二つのものを区別した。mens と corpus 乃至 cogitatio と extensio。私は今実在に就いて更に物体乃至延長の世界にまで範囲を限ろうと思う。処が他方に於て、このように制限された実在を云い表わす概念は、今日吾々が常識的に――そして勿論知識の範囲に於て――用いている自然という概念でなければならないであろう。哲学者達は自然という言葉を夫々独特の意味に用いたではあろう、併し私の云うのは術語ではなくして通俗語である。実在とは今の場合このような意味での自然である。そこで自然をどう取り扱おうとするか。
 私は今自然の意味を限定した、そして或る自然概念を獲得した。この限定に於てこの獲得において、すでにこの概念*は行くべき方向を与えられている、この概念は、あらゆる概念が実はそうなければならないように、その成立の動機を**担って始めて成り立っている。吾々は単に或る概念を…

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