えあ草紙・青空図書館 - 作品カード


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二科会その他
にかかいそのた
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「寺田寅彦全集 第八巻」 岩波書店
1997(平成9)年7月7日
初出「明星」1925(大正14)年10月1日
入力者Nana ohbe
校正者松永正敏
公開 / 更新2006-09-13 / 2014-09-18
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 安井氏の絵はだんだんに肩の凝りが解けて来たという気がする。同時にだんだん東洋人らしいところが出て来るように見える。もう一歩進むと結局南画のようなものに接近する可能性を持っているのではないかと思われる。あの裸体の少女でも、あれを少しどうかすると支那画の童子のような感じが出そうである。
 そう云えば、すぐ隣りにある山下氏の絵にもやはり東洋人が顔を出している。雪景色の絵などはどこか広重の版画の或るものと共通な趣を出している。
 津田君の小品ではこの東洋人がむき出しに顔を出している訳である。

 坂本氏の絵がかなり目立っている。これに対する向い側の壁に大分猛烈な絵が並んでいるので、コントラストの作用で一層この人の絵が静かに上品に見える。しかし自分には何だか完全に腑に落ち切らない一種の物足りなさが感ぜられる。この上品さを徹底させると結局何も描かないのが一番上品だという事も云われる。何かしらこの淡泊の中にしっかりした「しめくくり」が欲しいような気がする。海岸に岩がころがっている絵があると思って、目録を見たら「柿」としてあった。

 正宗氏と鍋井氏の絵を見ると、かなり熱心に自分の殻を突き破る事に努力しているという事が感ぜられる。しかしあまりあせり過ぎては、却って自分にある好い物を捨てて自分にないものを追っかける恐れがありはしないか。画家の絵の転機はやはり永い間に自然に起って来るものがほんとうにその人に取って純真なものではないだろうか。毎年の展覧会に必ず変化を見せる必要はないかと思う。

 ブラマンク張りの絵が沢山出ている。私は二科会で何故こういう明白な模造を陳列させるかがどうしても解らない。
 その他にも大分同類がある。同じ人で静物は甲の仏人、人物は乙の仏人といったように真似の使い分けをしているのもある。

 椎塚氏の絵には何時もながら閉口するが、しかしこの人は、別にこれらの絵を人に見せて賞めてもらうために描いているらしく見えないところを頼もしく思う。
 この人の絵を見ていると、日常見馴れているものの中に潜んでいるグロテスクな分子を指摘される。天プラや、すしなどがあんなに恐ろしい鬼気をもって人に迫り得るという事を始めてこの画から教えられる。
 このままでだんだんに進んで行くところまで行ったら意外な面白いところに到達する可能性があるかもしれない。

 中川紀元氏の今年の裸体は去年のほどおぞましく恐ろしくはない。わざとらしさが少しけ抜けたせいか、それとも此方の眼が少し教育されて来たせいかもしれない。しかしこういう絵には、そういつまでも同じようなものを描き続け得られないだろうと思わせるある物がある。

 院展もちょっと覗いてみた。
 近藤浩一路氏は近年「光」の画を描く事を研究しているように見える。ただそれを研究しているという事が何より先に感ぜられるので、楽しんで見るだけのゆと…

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