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努力論
どりょくろん
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「努力論」 岩波文庫、岩波書店
1940(昭和15)年2月16日
入力者岡村和彦
校正者大沢たかお
公開 / 更新2011-03-21 / 2014-09-16
長さの目安約 337 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

自序

努力は一である。併し之を察すれば、おのづからにして二種あるを觀る。一は直接の努力で、他の一は間接の努力である。間接の努力は準備の努力で、基礎となり源泉となるものである。直接の努力は當面の努力で、盡心竭力の時のそれである。人はやゝもすれば努力の無效に終ることを訴へて嗟歎するもある。然れど努力は功の有と無とによつて、之を敢てすべきや否やを判ずべきでは無い。努力といふことが人の進んで止むことを知らぬ性の本然であるから努力す可きなのである。そして若干の努力が若干の果を生ずべき理は、おのづからにして存して居るのである。ただ時あつて努力の生ずる果が佳良ならざることもある。それは努力の方向が惡いからであるか、然らざれば間接の努力が缺けて、直接の努力のみが用ひらるゝ爲である。無理な願望に努力するのは努力の方向の惡いので、無理ならぬ願望に努力して、そして甲斐の無いのは、間接の努力が缺けて居るからだらう。瓜の蔓に茄子を求むるが如きは、努力の方向が誤つて居るので、詩歌の美妙なものを得んとして、徒らに篇を連ね句を累ぬるが如きは、間接の努力が缺けて居るのである。誤つた方向の努力を爲すことは寧ろ少いが、間接の努力を缺くことは多い。詩歌の如きは當面の努力のみで佳なるものを得べくは無い。不勉強が佳なる詩歌を得る因にはならぬが、たゞ當面の勉強のみに因つて佳なる詩歌が得らるゝものでは無い。朝より暮に至るまで、紙に臨み筆を執つたからとて、字や句の百千萬をば連ね得はするだらうが、それで詩歌の逸品は出來ぬ。此意に於て勉強努力は甚だ價が低い。で、努力を喜ばず、勉強を斥ける人もある。特に藝術の上に於ては自然の生成を尚び、努力を排する者も多い。それも有理の説である。努力萬能なりとは斷じ得ぬ。印度の古傳の如く、技藝天即ち藝術の神は六欲の圓滿を得た者の美睡の頭腦中よりおのづからにして生り出づる者であるかも知れぬ。當面の努力のみで、必らず努力の好果が得らるゝならば、下手の横好といふ諺は世に存せぬであらう。併しそれにしても其は努力の排斥すべき所以にはならないで、卻つて間接の努力を要求する所以になつてゐる。努力無效果の事實は、藝術の源泉となり基礎となる準備の努力、即ち自性の醇化、世相の眞解、感興の旺溢、製作の自在、それ等のものを致すの道を講ずることが重要であるといふことを、徒らに紙に臨み筆を執るのみの直接努力を敢てしてゐるものに明示して居るのである。努力はよしや其の效果が無いにせよ、人の性の本然が、人の生命ある間は、おのづからにして人の敢へてせんとするものである。厭ふことは出來ぬものである。
併し努力を喜ばぬ傾の人に存することを否定することは出來ぬ。將に睡らんとする人と漸く死せんとする人とは、直接の努力をも間接の努力をも喜ばぬ。それは燃ゆべき石炭が無くなつて、火が[#挿絵]を擧げることを辭退して居るのである…

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