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盈虚
えいきょ
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「中島敦全集第一卷」 筑摩書房
1976(昭和51)年3月15日
初出「政界往来」1942(昭和17)年7月
入力者米田進
校正者土屋隆
公開 / 更新2008-12-28 / 2014-09-21
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 衞の靈公の三十九年と云ふ年の秋に、太子[#挿絵][#挿絵]が父の命を受けて齊に使したことがある。途に宋の國を過ぎた時、畑に耕す農夫共が妙な唄を歌ふのを聞いた。
既定爾婁豬
盍歸吾艾[#挿絵]
牝豚はたしかに遣つた故
早く牡豚を返すべし
 衞の太子は之を聞くと顏色を變へた。思ひ當ることがあつたのである。
 父・靈公の夫人(といつても太子の母ではない)南子は宋の國から來てゐる。容色よりも寧ろ其の才氣で以てすつかり靈公をまるめ込んでゐるのだが、此の夫人が最近靈公に勸め、宋から公子朝といふ者を呼んで衞の大夫に任じさせた。宋朝は有名な美男である。衞に嫁ぐ以前の南子と醜關係があつたことは、靈公以外の誰一人として知らぬ者は無い。二人の關係は今衞の公宮で再び殆どおほつぴらに續けられてゐる。宋の野人の歌うた牝豚牡豚とは、疑ひもなく、南子と宋朝とを指してゐるのである。
 太子は齊から歸ると、側臣の戲陽速を呼んで事を謀つた。翌日、太子が南子夫人に挨拶に出た時、戲陽速は既に匕首を呑んで室の一隅の幕の陰に隱れてゐた。さりげなく話をしながら太子は幕の陰に目くばせをする。急に臆したものか、刺客は出て來ない。三度合圖をしても、たゞ黒い幕がごそ/\搖れるばかりである。太子の妙なそぶりに夫人は氣が付いた。太子の視線を辿り、室の一隅に怪しい者の潛んでゐるのを知ると、夫人は悲鳴を擧げて奧へ跳び込んだ。其の聲に驚いて靈公が出て來る。夫人の手を執つて落着けようとするが、夫人は唯狂氣のやうに「太子が妾を殺します。太子が妾を殺します」と繰返すばかりである。靈公は兵を召して太子を討たせようとする。其の時分には太子も刺客も疾うに都を遠く逃げ出してゐた。
 宋に奔り、續いて晉に逃れた太子[#挿絵][#挿絵]は、人毎に語つて言つた。淫婦刺殺といふ折角の義擧も臆病な莫迦者の裏切によつて失敗したと。之も矢張衞から出奔した戲陽速が此の言葉を傳へ聞いて、斯う酬いた。とんでもない。こちらの方こそ、すんでの事に太子に裏切られる所だつたのだ。太子は私を脅して、自分の義母を殺させようとした。承知しなければ屹度私が殺されたに違ひないし、もし夫人を巧く殺せたら、今度は必ず其の罪をなすりつけられるに決つてゐる。私が太子の言を承諾して、しかも實行しなかつたのは、深謀遠慮の結果なのだと。

 晉では當時范氏中行氏の亂で手を燒いてゐた。齊・衞の諸國が叛亂者の尻押をするので、容易に埒があかないのである。
 晉に入つた衞の太子は、此の國の大黒柱たる趙簡子の許に身を寄せた。趙氏が頗る厚遇したのは、此の太子を擁立することによつて、反晉派たる現在の衞侯に楯突かうとしたに外ならぬ。
 厚遇とはいつても、故國にゐた頃の身分とは違ふ。平野の打續く衞の風景とは凡そ事變つた・山勝ちの絳の都に、侘しい三年の月日を送つた後、太子は遙かに父衞公の訃を聞いた。噂によ…

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