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江口渙氏の事
えぐちかんしのこと
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「大川の水・追憶・本所両国 現代日本のエッセイ」 講談社文芸文庫、講談社
1995(平成7)年1月10日
入力者向井樹里
校正者砂場清隆
公開 / 更新2007-03-13 / 2014-09-21
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 江口は決して所謂快男児ではない。もっと複雑な、もっと陰影に富んだ性格の所有者だ。愛憎の動き方なぞも、一本気な所はあるが、その上にまだ殆病的な執拗さが潜んでいる。それは江口自身不快でなければ、近代的と云う語で形容しても好い。兎に角憎む時も愛する時も、何か酷薄に近い物が必江口の感情を火照らせている。鉄が焼けるのに黒熱と云う状態がある。見た所は黒いが、手を触れれば、忽その手を爛らせてしまう。江口の一本気の性格は、この黒熱した鉄だと云う気がする。繰返して云うが、決して唯の鉄のような所謂快男児などの類ではない。
 それから江口の頭は批評家よりも、やはり創作家に出来上っている。議論をしても、論理よりは直観で押して行く方だ。だから江口の批評は、時によると脱線する事がないでもない。が、それは大抵受取った感銘へ論理の裏打ちをする時に、脱線するのだ。感銘そのものの誤は滅多にはない。「技巧などは修辞学者にも分る。作の力、生命を掴むものが本当の批評家である。」と云う説があるが、それはほんとうらしい嘘だ。作の力、生命などと云うものは素人にもわかる。だからトルストイやドストエフスキイの翻訳が売れるのだ。ほんとうの批評家にしか分らなければ、どこの新劇団でもストリンドベルクやイブセンをやりはしない。作の力、生命を掴むばかりでなく、技巧と内容との微妙な関係に一隻眼を有するものが、始めてほんとうの批評家になれるのだ。江口の批評家としての強味は、この微妙な関係を直覚出来る点に存していると思う。これは何でもない事のようだが、存外今の批評家に欠乏している強味なのだ。
 最後に創作家としての江口は、大体として人間的興味を中心とした、心理よりも寧ろ事件を描く傾向があるようだ。「馬丁」や「赤い矢帆」には、この傾向が最も著しく現れていると思う。が、江口の人間的興味の後には、屡如何にしても健全とは呼び得ない異常性が富んでいる。これは菊池が先月の文章世界で指摘しているから、今更繰返す必要もないが、唯、自分にはこの異常性が、あの黒熱した鉄のような江口の性格から必然に湧いて来たような心もちがする。同じ病的な酷薄さに色づけられているような心もちがする。描写は殆谷崎潤一郎氏の大幅な所を思わせる程達者だ。何でも平押しにぐいぐい押しつけて行く所がある。尤もその押して行く力が、まだ十分江口に支配され切っていない憾もない事はない。あの力が盲目力でなくなる時が来れば、それこそ江口がほんとうの江口になり切った時だ。
 江口は過去に於て屡弁難攻撃の筆を弄した。その為に善くも悪くも、いろいろな誤解を受けているらしい。江口を快男児にするも善い誤解の一つだ。悪い誤解の一つは江口を粗笨漢扱いにしている。それらの誤解はいずれも江口の為に、払い去られなければならない。江口は快男児だとすれば、憂欝な快男児だ。粗笨漢だとすれば、余りに教養のある粗…

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