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鴨の喜劇
かものきげき
著者
翻訳者井上 紅梅
文字遣い新字新仮名
底本 「魯迅全集」 改造社
1932(昭和7)年11月18日
入力者京都大学電子テクスト研究会入力班
校正者京都大学電子テクスト研究会校正班
公開 / 更新2007-07-04 / 2014-09-21
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 ロシヤの盲目詩人エロシンコ君が、彼の六絃琴を携えて北京に来てから余り久しいことでもなかった。彼はわたしに苦痛を訴え
「淋しいな、淋しいな、沙漠の上にある淋しさにも似て」
 これは全く真実の感じだ。しかしわたしは未だかつて感得したことが無い。わたしは長くここに住んでいるから「芝蘭の室に入れば久しうしてその香を聞かず」ただ非常に騒々しく思う。しかしわたしのいわゆる騒々しさは、彼のいわゆる淋しさかもしれない。
 わたしは北京にいると、春と秋がないように感じるが、長く北京にいる人の話では、ここでは先にはこんなに暖かいことがなかった。地気が北転しているのだという。しかしわたしにはどうしても春と秋が無いように思われる。冬の末と夏の初めが受け継ぎ受け渡され、夏が去ったかと思うとすぐに冬が始まる。
 ある日、すなわちこの冬の末、夏の初めの夜間であった。わたしはたまたま暇を得たのでエロシンコ君を訪問した。彼はずっと仲密君の屋敷の中に住んでいたが、この時一家の人は皆睡っていたので、天下は至極安静であった。彼は独り自分の臥榻の上に凭れて、黄金色の長髪の間にはなはだ高い眉がしらをやや皺めて、旧游の地ビルマ、ビルマの夏の夜を偲んでいたのだ。
「こんな晩だ」
 と彼は言った。
「ビルマはどこもかしこも皆音楽だ。部屋の間、草の間、樹の上、みな昆虫の吟詠があっていろいろの音色が合奏し、いとも不思議な感じがする。その間に時々蛇の声も交って『シュウシュウ』と鳴いて蟲の声に合せるのではないか……」
 彼はあの時の気分を追想するかのように想い沈んだ。
 わたしは開いた口が塞がらなかった。こんな奇妙な音楽は、確かに北京では、未だかつて聴いたことがないのだから、いかに愛国心を振起しても弁護することは出来ない。彼は眼こそ見えないが、耳は聾ではない。
「北京には蛙の鳴声さえない……」
 と、彼は嘆息した。この嘆息はわたしを勇猛ならしめ
「蛙の鳴声ならありますよ」
 と、早速抗議を持出した。
「夏になって御覧なさい。大雨のあとで、あなたは蒼蝿いほど蝦蟇の叫びを聴き出すでしょう。あれは皆溝の中に住んでいるのです。北京にはどこにも溝がありますからね」
「おお……」

 幾日か過ぎると、わたしの話は明かに実証された。エロシンコ君はその時もう、いくつかのお玉杓子を買って来た。買って来ると彼は窓外の庭の中程にある小さな池の中に放した。その池は長さ三尺、濶さ二尺ぐらい、仲密君が蓮の花を植えるために掘ったもので、この池の中からかつて半朶の蓮の花を見出すことが出来なかったが、蝦蟇を飼うには実に持って来いの場所であった。お玉杓子は常に隊を組み群をなして水の中に游泳している。エロシンコ君は暇さえあると、彼等を訪問していたが、時に依ると子供等が
「エロシンコ先生、彼等に足が生えましたよ」と告げると、彼は非常に嬉しそうに
「おお…

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