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明治文学管見
めいじぶんがくかんけん
副題(日本文学史骨)
(にほんぶんがくしこつ)
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」 筑摩書房
1974(昭和44)年6月5日
初出「評論 一號~四號」女學雜誌社、1893(明治26)年4月8日、4月22日、5月6日、5月20日
入力者kamille
校正者鈴木厚司
公開 / 更新2005-03-02 / 2014-09-18
長さの目安約 38 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

     一、快楽と実用

 明治文学も既に二十六年の壮年となれり、此歳月の間に如何なる進歩ありしか、如何なる退歩ありしか、如何なる原素と如何なる精神が此文学の中に蟠りて、而して如何なる現象を外面に呈出したるか、是等の事を研究するは緊要なるものなり、而して今日まで未だ此範囲に於て史家の技倆を試みたるものはあらず、唯だ「国民新聞」の愛山生ありて、其の鋭利なる観察を此範囲に向けたるあるのみ。余は彼の評論に就きて満足すること能はざるところあるにも係らず、其気鋭く胆大にして、幾多の先輩を瞠若せしむる技倆に驚ろくものなり。余や短才浅学にして、敢て此般の評論に立入るべきものにあらねども、従来「白表女学雑誌」誌上にて評論の業に従事したる由来を以て、聊か見るところを述べて、明治文学の梗概を研究せんと欲するの志あり。余が曩に愛山生の文章を評論したる事あるを以て、此題目に於て再び戦を挑まんの野心ありなど思はゞ、此上なき僻事なるべし。之れ余が日本文学史骨を著はすに当りて、予め読者に注意を請ふ一なり。
 余は之れより日本文学史の一学生たらんを期するものにて、素より、この文学史を以て独占の舞台などゝせん心掛あるにはあらず、斯く断りするは、曾つて或人に誤まられたることあればなり、余は学生として、誠実に研究すべきことを研究せんとするものなれば、縦令如何なることありて他人の攻撃に遭ふことありとも、之に向つて答弁するものと必せず、又容易に他人の所論を難ずる等の事なかるべし。且つ美学及び純哲学に於て極めて初学なる身を以て、文学を論ずることなれば、其不都合なる事多かるべきは、呉々も予め断り置きたる事なり。加ふるに閑少なく、書籍の便なく、事実の蒐集思ふに任せぬことのみなるべければ、独断的の評論をなす方に自然傾むき易きことも、亦た予め諒承あらんことを請ふになむ。
 特に山路愛山先生に対して一言すべきことあり。爰にて是を言ふは奇しと思ふ人あらんかなれど、余は元来余が為したる評論に就きて親切なる教示を望みたるものなるに、愛山君は余が所論以外の事に向て攻撃の位地に立たれ、少しも満足なる教示と見るべきはあらず、余は自ら受けたる攻撃に就きて云々するの必要を見ざれば、其儘に看過したり。本より、文学の事業なることは釈義といふ利刀を仮り来らずとも分明なることにして、文学が人生に渉るものなることは何人といへ雖、之を疑はぬなるべし。愛山先生若しこの二件を以て自らの新発見なりと思はゞ、余輩其の可なるを知らず。余は右の二件を難じたるものにあらず、余が今日の文学の為に、聊か真理を愛するの心より、知交を辱うする愛山君の所説を難じたるは、豈に虚空なる自負自傲の念よりするものならんや。これを以て、余は愛山君の反駁に答ふることをせざりし。然るに豈図らんや、其他にも余が所論を難ぜんとしてか、或は他に為にする所ありてか、人生に相渉らざる…

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