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比叡山
ひえいざん
作品ID43446
著者若山 牧水
文字遣い旧字旧仮名
底本 「若山牧水全集 第五卷」 雄鷄社
1958(昭和33)年8月30日
入力者kamille
校正者小林繁雄
公開 / 更新2004-08-18 / 2014-09-18
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 山上の宿院に着いた時はもう黄昏近かつた。御堂の方へ參詣してからとも思うたが、何しろ私は疲れてゐた。「天台宗講中宿泊所」「一般參詣者宿泊所」といふ風の大きな木の札の懸つてゐるその冠木門を見ると、もう脚が動かなかつた。
 門を入るとツイ眼の前に白い花がこんもりと咲き枝垂れてゐた。見るともなく見れば、思ひもかけぬ幾本かの櫻の花である。五月の十八日だといふに、と思ふと、急に山の深いところに來てゐるのを感じた。飛石を傳つて、苔の青い庭を玄關まで行つたが、大きな建物には殆んど人の氣も無く、二三度訪うても返事は聞かれなかつた。途方に暮れてぼんやりと佇んでゐると、何やら鳥の啼くのが聞える。靜かな、寂しいその聲は曾つて何處かで聞いたことのある鳥である。しばらく耳を澄ましてゐるうちに筒鳥といふ鳥であることを思ひ出した。思ひがけぬ友だちにでも出會つた樣に、急に私の胸はときめいて來た。そして四邊を見[#挿絵]すと何處もみな鬱蒼たる杉の林で、その夕闇のなかからこの筒拔けた樣な寂しい聲は次から次と相次いで聞えて來てゐるのである。
 坂なりに建てられたこの宿院のずつと下の方に煙の上つてゐるのを見た。どうやら人の居る氣勢もする。私は玄關を離れてそちらへ急いだ。あけ放たれた入口の敷居を跨ぐと、中は廣大な土間で、老婆が一人、竈の前で眞赤な火を焚いてゐる。私はいきなり聲をかけてその老婆の側に寄りながら、五六日厄介になりたいがと言ひ込んだ。驚いた老婆はさも胡亂臭さうに私を見詰めてゐたが、此頃こちらでは一泊以上の滯在はお斷りすることになつてゐるからといふ素氣もない挨拶である。
 私は撲たれた樣に驚いた。そして一寸には二の句がつげなかつた。初めこの比叡山に登つて來たのは參詣のためでなく、見物でもなく、或る急ぎの仕事を背負つて來たのであつた。自分のやつてゐる歌の雜誌の編輯を今月は旅さきで濟ませねばならぬ事になり、東京から送つて來たその原稿全部をば三四日前既に京都で受取つてゐたのである。そして急いで京都でそれを片附けるつもりであつたが、久しぶりに行つた其處では同志の往來が繁くて、なか/\ゆつくりそんな事に向つてゐるひまが無かつた。印刷所に[#挿絵]さねばならぬ日限は次第に迫つて來るし、困つた果てに思ひついたのはこの山の上であつた。それは可からう、其處には宿院といふのがあつて行けば誰でも泊めて呉れるし、幾日でも滯在は隨意だし、と幾度びか其處に行つた經驗のある或る友人も私のその計畫に贊成して呉れたので早速私は重い原稿を提げて登つて來たのであつた。京都から大津へ、大津から汽船で琵琶湖を横切つて坂本へ、坂本から案外に嶮しい坂に驚きながらも久しぶりにさうした山の中に寢起きする事を樂しみながら、漸く斯うして辿り着いて來たのである。
 さうして斯ういふ思ひもかけぬ返事を聞いたので、私はまつたくぼんやりしてしまつた。そ…

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