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人生の意義
じんせいのいぎ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」 筑摩書房
1969(昭和44)年6月5日
初出「文學界 五號」文學界雜誌社、1893(明治26)年5月31日
入力者kamille
校正者鈴木厚司
公開 / 更新2005-05-06 / 2014-09-18
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 人間の外に人間を研究すべき者なし、ライフある者の外にライフを研究すべき者なし。近頃ライフの一字、文学社会に多く用ひらるゝに至れるを見て、ひそかに之を祝せんとするの外、豈敢て此大問題を咄嗟の文章にて解釈することをせんや。然るに吾人が爰にて物好きにも少しくライフの意義に就きて言はんと欲するに至りたるは、決して偶然の事にあらざるなり。
 ライフの一字に真正の解釈を加へんとせば、汎く哲学、宗教、及び諸科学に渉りて之を窮めざるべからず、何となれば、もろ/\の学芸は実にライフを解釈するが為に成立すと云ふとも不可なき程なればなり。然れども、吾人素より哲学者にあらず、曷んぞ斯かる面倒なる事を議論するの志あらんや。然るに近頃吾人を評難する者あり、吾人「文学界」の一団を以て、ライフに関する、すべての事を軽んずる者の様に言ひ做して、頻に攻撃を試むると覚えたり。余は一個人としては、「文学界」の社末に連れる若年書生のみ、「文学界」全躰として受けたる攻撃に対しては、従来編輯の要務に当れる天知翁の申開ありと聞けば、余は決して「文学界」全躰としての攻撃に当る事をせじ、唯だ余一個に対しての攻撃即ち人生問題に関しては、飽まで其責を負ふ積なり。然れども、讒謗罵詈を極めたるものに対しては、例令如何なる名説なりとも、又如何なる毒説なりとも、之に対して何等の答弁をも為ざるべし、余は批評を好むものなり、争ふことを好むものなり、争ふは争ふ為にせざるなり、文章の争に於て敵を作るとも、人と人との間に於て敵を作るを好まざるなり、故に余は讒謗罵詈の始まりたる喧嘩には御暇を頂戴すべし、政党などの争には随分反目疾視してステッキ騒ぎまで遣るも好し、思想界に於て此の真似をせば、世人誰れか之を健全なる喧嘩と言はむ。
 そも人生といへる言葉には種々の意味あるべしと雖、極めて普通なる意味は、人間の生涯といふ事なり。然るに、近頃英文学思想の漸く入りてより、この人生といふ一字を、彼の語なるライフに当篏めて用ふる事多くなれり。ライフとは前にも言ひし難問にて、哲学上にも随分面倒なるものなるからに、其の字の意義も仲々広きなり。人間成立の今日の有様にも用ひ、すべての生物の原力にも用ひ、宗教上にては生命の木など言ひて之も亦た別の意義なり、その外種々の意義に用ひらるゝものなることは、少しく英書を解するものゝ容易に見分けらるゝ事なり。
 吾人が「人生相渉論」にて用ひたる「人生」の一字は、「頼襄論」の著者が用ひたる字を取りしなり、吾人は其当時に於て、その著者にその字の意義を訊ねしに、著者は之をファクト(事実)の事なりと答へたり(「頼襄論」の著者は余が敬愛する先輩なり、議論こそ異なれ、余は過去に於ても今日に於ても、著者を敬愛するの情に於ては、一点の相違なきなり、但し口頭の争ひが筆端の争となりたるばかりなり)、爰に於て余は、著者の用ひたる「人生」は…

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