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かなしみの日より
かなしみのひより
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「素木しづ作品集」 札幌・北書房
1970(昭和45)年6月15日
入力者小林徹
校正者福地博文
公開 / 更新1999-07-15 / 2014-09-17
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 彼女は、遠くの方でしたやうな、細い糸のやうな赤ん坊の泣き声を、ふと耳にしてうつゝのやうに瞳を開けた。もはや部屋のなかには電気がついてゝ戸は立てられてあった、そして淡黄色い光りが茫然と部屋の中程を浮かさるゝやうになって見えた。
『一寸もお苦しくは御座いませんか。気が遠くなるやうじゃ御座いませんか。』
 彼女の瞳がうっすらと開いたのを見て、色の黒い目っかちのやうな産婆がすぐ声をかけた。彼女はなんにも見なかった。そしてその声ばかりを耳元で静かに聞いた。
『いゝえ、一寸も苦しくないの。それはいゝ気持。』
 そして彼女は夢のなかで一人ごとを云ふやうに、快よさそうに云った。するとまた、
『大丈夫ですか、まだすんだのじゃありませんからね。もう一度、ほんのちょっと苦しみさへすればそれでいゝんですからね。』とやさしい声がきこえて来た。
「おゝ、私は非常に苦しんだのだった。あの時は障子に明るい日があたってちらちらしてゐた。そして私が、寒さと冷汗と烈しい痛みのなかにふるへてゐた私が、くらやみの中に閉ぢた眼をふと開けて、あの障子にちらちら踊ってた日を見たのだった。外はまばゆい程明るかった。そして私は本当にすべてが消滅するかと思はれるほど苦しんだのだった。」
 彼女は、ふと頭のなかですべてのことを思ひ浮べたやうだった。あの恐ろしい発作のやうななやみを、そして彼女はぼんやりと、どこかに非常にあはれな小さな赤ん坊がゐるに違ひないと思った。彼女はぼんやりと再び瞳を開けた。
 すると、目の前にいつも髪を結ひに来る赤い顏の肥えた髪結さんの、まんまるい大きな眼が不安そうに光ってゐた。
『ね、奥様、ちょっと起き上って見ちゃどうですか。私がそっとこう大切に手をかけて見てあげますから、あゝ私はどうしたらいゝか気が気ぢゃない。奥様、後のものが下りないと、大変なんですがねえ、どうしたらいゝだらう。血が頭に上ってしまったら。ね、奥様一寸起き上って見なすっちゃどうですか。そうするとすぐ下りるんですけれどもね。第一寝てお産するのがいけないのだ。』
『髪結さんなの。』
彼女は低い声で気のなさそうに聞いた。
『えゝ、奥様がなんだといふ事を聞いたもんですから、まあ一寸と思って急いで来たんですがね、赤さんが出てしまったのに後のものが下りないなんていふもんだから、私しゃ吃驚してしまった。』
『いゝの、私はこのまゝでいゝの。』
 彼女は、そばであはたゞしく大声で話しかけられたので目覚めかけたやうな頭が、またぼうとなって来た。そしてまたうっすらと瞳を閉ぢてしまった。
 彼女はたゞ夢のやうである。そして彼女はこの夢のやうな淡いふんわりと浮き上ってるやうな心持を、なぜか多くの人々が気づかひそうに見守ってゐることが感じられた。けれども彼女はどうしようとも思はなかった。そして彼女の心は只茫然と時々遠くの方へ引づられてゆくやうな気が…

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