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小壺狩
こつぼがり
作品ID4352
著者薄田 泣菫
文字遣い新字旧仮名
底本 「泣菫随筆」 冨山房百科文庫43、冨山房
1993(平成5)年4月24日
入力者林幸雄
校正者門田裕志
公開 / 更新2003-04-06 / 2014-09-17
長さの目安約 20 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

        一

 彦山村から槻の木へ抜ける薬師峠の山路に沿うて、古ぼけた一軒茶屋が立つてゐます。その店さきに腰を下ろして休んでゐるのは、松井佐渡守の仲間喜平でした。松井佐渡守といふのは、当国小倉の城主細川忠興の老臣として聞えた人でした。
 晴れた初夏の昼過ぎて、新鮮な若葉の山は、明るい日光をうけて陽気に笑つてゐました。先刻から軒さきに突つ立つた高い木の枝にとまつて、鈴を振るやうな美い声で、ちんからころりと鳴いてゐた小鳥が、どこへともなく去つてしまつた後は、あたりはひつそりとして乾いた山路に落ちかかつたそこらの立樹の影が、地べたを這ふ音さへ聞かれさうな日でした。昼の仕度をすませた喜平は、何だかまだ物足りなささうな様子で、貧しい茶屋の店さきに渇いた眼をやりました。
「亭主、麦熬しでもできるかい」
「はい、出来立ての熬しがございます。一服立てて進ぜませうか」
「さうか。では早速頼む」
「承知いたしました」
 茶店の爺さんは、やつとこなと上り框から腰を持ち上げました。そして埃だらけの棚から、小出しに粉を入れておくらしい小さな瀬戸焼の壺を取りおろすと、ぶきつちよな手つきで、そのなかから茶碗へと粉を移し取りました。
 立てられた麦熬しの茶碗を手に取ると、喜平はまづそれを鼻さきに持つてゆきました。香ばしい新麦のにほひは眼にも泌むやうでした。喜平は子供の頃から出来立ての熬しのにほひを嗅ぐのが何よりも好きでした。夏が来るといつもそれを思ひ出しました。
 茶碗に箸をつけた喜平は、その塩加減がひどく利き過ぎてゐるのに驚きました。
「鹹つぱいな」
 喜平は一箸ごとにさう思ひながら、ちびりちびりと嘗めるやうにしてそれを味はつてゐるうちに、いつぞや主人佐渡守に聞いた、石州産れのある坊さんの失敗話をふと思ひ出しました。この坊さんは、あるとき京都へ上つて土産に香煎を買つて帰りました。折よくそこへ檀家の者が訪ねてきたので、
「幸ひ京土産の香煎がある。一服立てて進ぜよう」
 坊さんはかう言ひながら、得意さうに香煎のなかへ塩を加減して、それに湯をさして客に進めました。客は一口それに唇をあてると、その瞬間、主人の坊さんが香煎を取り扱ふのに、麦熬しを立てるのと同じ方法をとつたことに気がついたものの、さて笑ひ出すわけにもゆかず、鹹つぱゆさに唇が曲りさうになるのを辛抱しながら、やつとそれを食べ畢つたといふ話なのでした。
「鹹つぱいな。坊さんの香煎もこんなだつたかも知れない」
 喜平はこんなことを考へながら、やつと麦熬しを食べてしまひました。
「も一ついかがでございます」
「いや、もう沢山だ」
 喜平は盆の上に茶碗を返しました。爺さんはそれをもつて、薄暗い流し元に入つてゆきました。
 先刻から店先の物蔭でぐつすり昼寝をしてゐた飼猫は、急に起き上つて両脚を蹈み伸ばして大きく欠伸をしたと思ふと、のそのそ…

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