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もつれ糸
もつれいと
作品ID43520
著者清水 紫琴
文字遣い新字旧仮名
底本 「紫琴全集 全一巻」 草土文化
1983(昭和58)年5月10日
初出「万朝報」1899(明治32)年8月
入力者小林繁雄、門田裕志
校正者松永正敏
公開 / 更新2004-10-20 / 2014-09-18
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「銀さんー」と、女は胸に手を差入れて、切ない思いをこらへながら、みんなあたしが悪かつたの、耐忍しておくれ、ねあたしだつて、何も酔興で、彼家へ嫁入つたといふのじやなしさ、お前さんも知つての通りな羽目になつて、よんどころなく、つひ……」
と男の面をそつとながめて、ほろりとした。年の二十三か四でもあろう。頭髪の銀杏返とうに結つて、メレンスと繻子の昼夜帯の、だらり、しつかけに、見たところ、まだ初々しい世話女房であつた。
「そりや、解つてらア」と、銀と呼ばれた男は、つつけんどんにいつた。酒に靡へてか、よろめく足元危く、肩には、古ぼけた縞の毛布をかけていたが、その姿から見ると、車夫ででもあろうか。年は女よりは三つばかり年長に見えた。
 大学の大時計と、上野の時鐘とが、言い合わしたように今、十時を打ち出して、不忍池畔の夜は更けた。その静けさを破つて、溝川を越えて彼方の町並を流し行く三味線の音がしんみりと聞こえる。秋といつても九月の末、柳は、もう大概落葉してしまつた。
「でもね。銀さん」と女は改めて呼びかけた。「そりや、あたしにア腹を立つてもおありだらうけども、何もね、伯母さんが知つておいでの事じやあるまいし、いつまでもそんな真似をしていて、伯母さんに苦労を掛けていやうといふの。……立派な手腕を持つておありだし、伯父さんの代からの花主はたんとお有りだらうし、こころを入れ換へてさ。ちいと酒を控目にしてお稼ぎなら、直とむかしの棟梁になつておしまひだらうに、あのこんな事いつちや何だけど、お前その気は無いのかえ」
「無えー」
「無いつてお前……」と、女のことばはつまる。
「無えよ、うむー。正に無え、……俺の手腕はとうにしびれッちまつた。手腕ばかりならいいが、脛も腰も、骨も肉も、ないし魂も根性もだツ、立派に腐つた……。しびれきつてしまつたてえ事ッ。碌でなしだからな」
 空を仰いで虹のやうな息を吐く。
「しようがないね」と、のみ、女はさらに愁然として、「お前さんは、そんなにおこつておいでだし、あたしアやる瀬がありやしない」
と、いつか、両袖で顔を隠してしまつた。あはれその心の底は、いかに激しく悶えるのであらう。肩頭よりかすかに顫へた。

 しばらく経つてから、「お前そういつておいでだけども、ねえ、銀さん、何も時と時節だわね。そう一酷にさ、いや忌々しいの、腹が立つのといつていたんじや、一日だつて世の中に生きていられはしないよ、世の中が思つたり適つたりで暮らせる位なら、人間にア涙なんてえものァいらないものさ。それがある点がうき世をいつたものじやないの。そりや銀さんは、あたしを不人情者とも、不貞腐れとも思つておいでだろう。もとよりあたしが非いんさ。非いにァちがいないけども、底には底のあるものだよ」
 と女はしみじみと語り出した。
 渠女は、銀が三年以来の惨澹たる経歴と、大酒飲みになつた事と、…

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