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学問の自由
がくもんのじゆう
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「寺田寅彦全集 第五巻」 岩波書店
1997(平成9)年4月4日
初出「鉄塔 第二巻第九号」1933(昭和8)年9月1日
入力者Nana ohbe
校正者青野弘美
公開 / 更新2006-11-23 / 2016-02-25
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 学問の研究は絶対自由でありたい。これはあらゆる学者の「希望」である。しかし、一体そういう自由がこの世に有り得るものか、どの程度までそれが可能であるか、またその可能限度まで自由を許すことが、当該学者以外の多数の人間にとって果していつでも望ましい事であるか。こういう問題を、少し立入って考究し論議するとなると、事柄は存外複雑になって来て、おそらく、そうそう簡単には片付けられないことになるであろう。あるいは結局いつまで論議しても纏まりの付かないような高次元の迷路をぐるぐる廻るようなことになるかもしれない。
 こういう疑いは、問題の学問が、複雑極まる社会人間に関する場合に最も濃厚であるが、しかし、外見上人間ばなれのした単なる自然科学の研究についても、やはり起こし得られる疑問である。
 科学者自身が、もしもかなりな資産家であって、そうして自分で思うままの設備を具えた個人研究所を建てて、その中で純粋な自然科学的研究に没頭するという場合は、おそらく比較的に一番広い自由を享有し得るであろう。尤も、そういう場合でも、同学者の間にはきっと、あの設備があるのに、あんな事ばかりやっている、といったような批評をするものの二、三人は必ずあるであろうが、そういう批評が耳に這入ったときに心を動かさないだけの「心の自由」がありさえすれば、何でもない。しかし、そういう恵まれた環境にめぐり遭う学者は稀である。たまたまそういう環境を恵まれた人にはまた存外そういう研究に熱心な人が稀である。それで、大多数の科学者は結局どこかで誰か他人の助けをかりて生活すると同時に研究する外はない。それで、国家なり個人なりが一人の学者に生活の保障と豊富な研究費を与えてくれて、そうして好きな事を勝手に研究させてくれればこれほど結構なことはないが、そういう理想的な場合が事実上存在するかどうかを考えてみる。
 ちょっと考えると、大学教授などというものは、正しくそういう立場にありそうに見えるが、事実は必ずしもそうでない。第一、教授の職責の大きな部分は学生を教える事である。それから色々な事務がある。時には会計官吏や書記や小使の用をつとめなければならない。好きな研究に没頭する時間を拾い出すのはなかなか容易でないのである。その上に肝心な研究費はいつでも蟻の涙くらいしか割当てられない。その苦しい世帯を遣り繰りして、許された時間と経費の範囲内で研究するにしても、場合によってはまた色々意外な拘束の起ることが可能である。例えば若い教授または助教授が研究している研究題目あるいは研究の仕振りが先輩教授から見て甚だ凡庸あるいは拙劣あるいは不都合に「見える」場合には、自然に且つ多くの場合に当事者の無意識の間に、色々の拘束障害が発生して来て、その研究は結局中止するか、あるいは研究者がそこを去る外はないようになることもないとは云われない。環境に適しない…

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