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映画と音楽
えいがとおんがく
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「新装版 伊丹万作全集2」 筑摩書房
1961(昭和36)年8月20日
入力者鈴木厚司
校正者土屋隆
公開 / 更新2007-08-25 / 2014-09-21
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 映画における音楽の位置をうんぬんするとき、だれしも口をそろえて重大だという。
 なぜ重大なのか。どういうふうに重大なのか。だれもそれについて私に説明してくれた人はない。重大であるか否かはさておき、さらに一歩さかのぼつて音楽は映画にとつて必要であるか否かということさえまだ研究されてはいないのである。
 音楽ははたして原則的に映画に必要なものであるだろうか。
 だれかそれについて考えた人があつたか。私の見聞の範囲ではそういうばからしいことを考える人はだれもなかつたようである。
 ただもう、みなが寄つてたかつて「映画と音楽とは不可分なものだ。」と決めてしまつたのである。原則的に映画が写り出すと同時に天の一角から音楽が聞えはじめなければならぬことにしてしまつたのである。
 何ごとによらず、すべてこういうふうに信心深い人たちであるから、いまさら私が「音楽は必要か」などという愚問を提出したら、それはもうわらわれるに決つたようなものだ。
 ことに音楽家連中は待つてましたとばかり、「これだから日本の監督はだめだ。てんで音楽に対する理解力も素養もないのだから、これでいい映画のできるわけがない」と、こうくるに決つたものだ。
 ここでちよつと余談にわたることを許してもらいたいが、映画において重大なのは何も音楽一つに限つたわけのものではないのだ。音楽家ないしはそのジレッタント諸君が映画をごらんになる場合、ほかのことは何も見ないでもつぱら音楽のあらさがしだけに興味を持たれることは自由であるが、そのあとで、なぜこの監督はその半生を音楽の研究に費さなかつたか、などとむりな駄目を出されることははなはだ迷惑である。
 我々がその半生を音楽の教養に費していたら、いまごろはへたな楽士くらいにはなつていたかもしれぬが、決して一人まえの監督はできあがつていないはずである。
 我々がもしも映画の綜合するあらゆる部門にわたつて準専門家なみの研鑚を積まなければならぬとしたら、少なく見積つても修業期間に二百年位はかかるのである。
 要するに監督という職業は専門的に完成された各部署を動かしながら映画をこしらえて行くだけの仕事である。
 自分で一々オーケストラの前へ飛び出して行つたり、楽士に注文をつけたりする必要はない。気にいらぬ楽隊ならさつそく帰つてもらつて他の楽隊と取りかえればいいのであるが、日本ではなかなかそういうわけには行かないから、せめて音楽のアフレコのときには耳に脱脂綿でも詰めていねむりをしているのが、最も良心的とでもいうのであろう。
 へたな楽隊を一日のうちにじようずにすることは神さまだつてできることではない。まして一介の監督風情が、頭から湯気を立ててアフレコ・ルームを走りまわつてみたところで何の足しにもなりはしない。
 いくらクライスラーでも一日数時間ずつ、何十年の練習が積みかさならなければあ…

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