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カメラに関する覚え書
カメラにかんするおぼえがき
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「新装版 伊丹万作全集2」 筑摩書房
1961(昭和36)年8月20日
入力者鈴木厚司
校正者染川隆俊
公開 / 更新2007-03-22 / 2014-09-21
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 ある人が私の作品のあるカメラ・ポジションを批評して、必然性がないから正しくないといつた。
 私の考えではカメラ・ポジションに必然性がないということはあたりまえのことで、もしも必然性などというものを認めなければならぬとしたら非常に不都合なことになるのである。
 なぜならば一つのカットの撮り方は無数にあるわけで、その多くの可能性の中から一つを選ぶことが芸術家に与えられた自由なのである。したがつて必然性を認めるということは芸術家の自由を認めないというのと同じことで、それならば映画製作に芸術家などは要らないことになつてしまう。
 カメラ・ポジション選定の過程においてもしも必然性を認めるとしたら、それは芸術家がその主観において、「よし」と判断する悟性以外にはあり得ない。そしてその意味においてならば私は自分の作品のカメラ・ポジションには残らず必然性があると主張することもできるし(実際においては必ずしもそうは行かないが)、何人も外部からそれを否定する材料を持たないはずである。
 これを要するに、カメラ・ポジションを決定する客観的必然性などというものは存在しないし、主観的必然性というものはあつても、それは第三者によつては存在が規定されない性質のものであるとすれば、結局カメラ・ポジションの必然性というものは決して批評の対象とはなり得ないものだということがわかる。

 カメラ・ポジションの選択はだれの仕事だろう。私は多くの場合、それを監督の仕事にすることが一等便宜だと考えるものである。
 もしもカメラマンがあらゆるカットの目的と存在を正しく理解し、常に必要にしてかつ十分なら画面の切り方と、内容の規定する条件の範囲において最も美しい画面構成をやつてくれることが絶対に確実であるならば、私は好んで椅子から立ち上りはしない。
 どんなに優秀なカメラマンでも人間である以上、絶対に誤解がないとは保し難い。これは決して不思議なことではない。一般に一つのカットの含むあらゆる意味を監督以上に理解している人はない。
 長年の私の経験が、カメラ・ポジションの誤謬を最少限度にとどめる方法は、結局監督自身がルーペをのぞくこと以外にはないということを私に教えた。
 ただし、右は主として内容に即したカメラ・ポジションについてであつて、必ずしも美的要求からくる画面の切り方にまでは言及していない。
 内容の目的に沿うにはすでに十分であるが、同時に美的要求を満すためには、さらにポジションの修正を要する場合がある。
 あるいはカットの性質上、内容とポジションがあまり密接な関係を持たない場合がある。
 たとえば描写的なカットなどにおいては往々にして美的要求だけがポジションを決定する場合がある。このような部分、あるいは場合に関しては監督は一応手を引くべきであろう。
 なぜならば、それらは純粋にカメラ的な仕事だから。

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