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イオーヌィチ
イオーヌィチ
作品ID43647
原題JONYCH
著者チェーホフ アントン
翻訳者神西 清
文字遣い新字新仮名
底本 「可愛い女・犬を連れた奥さん」 岩波文庫、岩波書店
1940(昭和15)年10月11日
入力者佐野良二
校正者阿部哲也
公開 / 更新2008-01-04 / 2014-09-21
長さの目安約 46 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

       一

 県庁のあるS市へやって来た人が、どうも退屈だとか単調だとかいってこぼすと、土地の人たちはまるで言いわけでもするような調子で、いやいやSはとてもいいところだ、Sには図書館から劇場、それからクラブまで一通りそろっているし、舞踏会もちょいちょいあるし、おまけに頭の進んだ、面白くって感じのいい家庭が幾軒もあって、それとも交際ができるというのが常だった。そしてトゥールキンの一家を、最も教養あり才能ある家庭として挙げるのであった。
 この一家は大通りの知事の邸のすぐそばに、自分の持家を構えて住んでいた。主人のトゥールキンは、名をイヴァン・ペトローヴィチといって、でっぷりした色の浅黒い美丈夫で、頬髯を生やしている。よく慈善の目的で素人芝居を催して、自身は老将軍の役を買って出るのだったが、その際の咳のしっぷりがすこぶるもって滑稽だった。彼は一口噺や謎々や諺のたぐいをどっさり知っていて、冗談や洒落を飛ばすのが好きだったが、しかもいつ見ても、いったい当人がふざけているのやら真面目に言っているのやら、さっぱり見当のつきかねるような顔つきをしていた。その妻のヴェーラ・イオーシフォヴナは、瘠せぎすな愛くるしい奥さんで、鼻眼鏡をかけ、手ずから中篇や長篇の小説をものしては、それをお客の前で朗読して聴かせるのが大好きだった。娘のエカテリーナ・イヴァーノヴナは妙齢のお嬢さんで、これはピアノに御堪能だった。要するにこの一家の人たちは、みんなそれぞれに一技一芸の持主だったわけである。トゥールキン家の人々はお客を歓迎して、朗らかな、心から気置きのない態度で、めいめいの持芸を披露に及ぶのだった。彼らの大きな石造りの邸はひろびろしていて、夏分は涼しく、数ある窓の半分は年をへて鬱蒼たる庭園に面していて、春になるとそこで小夜鶯が啼いた。お客が家の中に坐っていると、台所の方では庖丁の音が盛んにして、玉ねぎを揚げる臭いが中庭までぷんぷんして――とこれがいつもきまって、皿数のふんだんな美味い夜食の前触れをするのだった。
 さて医師のスタールツェフ、その名はドミートリイ・イオーヌィチが、郡会医になりたてのほやほやで、S市から二里あまりのヂャリージへ移って来ると、やはり御多分に漏れず、いやしくも有識の士たる以上はぜひともトゥールキン一家と交際を結ばなくてはいかん、と人から聞かされた。冬のある日のこと、彼は往来でイヴァン・ペトローヴィチに紹介され、お天気の話、芝居の話、コレラの話とひとわたりあった後、やはり招待をかたじけのうすることになった。春になって、ある祭日のこと――それは昇天節の日だった――患者の診察を済ませるとスタールツェフは、ちょいと気散じがてら二つ三つ買物もあって、町へ出掛けた。彼はぶらぶら歩いて行ったが(実はまだ自分の馬車がなかったので)、のべつこんな歌を口ずさんでいた。――

浮…

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