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踊る地平線
おどるちへいせん
作品ID4365
副題01 踊る地平線
01 おどるちへいせん
著者谷 譲次
文字遣い新字新仮名
底本 「踊る地平線(上)」 岩波文庫、岩波書店
1999(平成11)年10月15日
入力者tatsuki
校正者米田進
公開 / 更新2003-01-02 / 2014-09-17
長さの目安約 56 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

   SAYONARA

 がたん!
 ――という一つの運命的な衝動を私たちの神経につたえて、午後九時十五分東京駅発下関行急行は、欧亜連絡の国際列車だけに、ちょいと気取った威厳と荘重のうちにその車輪の廻転を開始した。
 多くの出発と別離がそうであるように、じつに劇的な瞬間が私たちのうえに落ちる。
 まず、車窓のそとに折り重なる人の顔が一つひとつ大きな口に変って、それら無数の巨大な口腔が、おどろくべき集団的訓練のもとにここに一大音響を発した。あああ――あい! というのだ。ばんざああい!
 では、大きな声で『さよなら!』
 さよなら!
 そしてまた『ばんざあい!』
 この爆発する音波の怒濤。燃焼する感激。立ちのぼる昂奮と人の顔・顔・顔。そして夜のプラットフォームに漂う光線の屈折――それらの総合による場面的効果は、ながい長い行程をまえに控えている私達の心臓をいささか民族的な感傷に甘えさせずにはおかない。が、そんな機会はなかった。交通機関はつねに無慈悲にまで個人の感情に没交渉である。彼女が贈られた花束を振り、私が、この刹那の印象をながく記憶しようと努力しているうちに、汽車はじぶんの任務にだけ忠実に、well ――急行だから早い。さっさと出てしまった。私たちは車室へ帰る。
 皿のうえの魚のように、彼女はいつまでも花束とともに黙りこくって動かない。何が彼女の脳髄を侵蝕しているのか、私にはよくわかる。東京と東京の持つすべて、日本と日本のもつすべてから時間的にも地理的にも完全に離れようとするいま、私達は急に白っぽい不安に捉われ出したのだ。それはふたりのすこしも予期しなかった、そして、それだけまた自然すぎる、漠然たる憂鬱だった。
 しかし、この「去るに臨みて」の万感こもごもは、ぼうっと赤い東京の夜ぞらとともにすぐ消えて、かわりに私は、そこに世界地図の上を這いまわる二足の靴を想像する。それは、倫敦チャアリング・クロスの敷石もアルジェリアの砂漠も、シャンゼリゼエの歩道も同じ軽さで叩くだろうしベルゲンの土も附けばアラビヤの砂も浴びるだろう。私達の旅のすがただ。詩人の墓も撫でてみたいし、帝王の裾にも接吻したい。西班牙の駅夫と喧嘩することもあろうし、ルウマニアの巡査に小突かれる日もあろう。モンテ・カアロでは夜どおし張るつもりだ。ムッソリニと握手する。一夕独逸廃帝と快諾して思い出ばなしを聞く。ナポレオンの死の床も見たいし、ツタカメン王の使用した安全剃刀もぜひ拝観しよう。それから、それから、ETC・ETC――出来るだけ多くの大それた欲望を持つことが、旅行者にあたえられた権利であり、義務なのだ。
 気がついてみると私は、汽車の進行に合わしてこころ一ぱい叫んでいた。
 がたん・がたん!
 がたん・がたん!
 歓呼のこ――えに送られて
 歓呼のこ――えに送られて
 何とそれが調子よくピストンのひ…

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