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狂女
きちがい
作品ID43651
原題LA FOLLE
著者モーパッサン ギ・ド
翻訳者秋田 滋
文字遣い新字新仮名
底本 「モオパツサン短篇集 初雪 他九篇」 改造文庫、改造社出版
1937(昭和12)年10月15日
入力者京都大学電子テクスト研究会入力班
校正者京都大学電子テクスト研究会校正班
公開 / 更新2005-03-14 / 2014-09-18
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 実はねえ、とマテュー・ダントラン君が云った。――僕はその山※[#「鷸」のへんとつくりが逆、86-1]のはなしで、普仏戦争当時の挿話をひとつ思い出すんだよ。ちと陰惨なはなしなんだがね。
 君は、コルメイユの町はずれに僕がもっていた地所を知っているだろう。普魯西の兵隊が押寄せて来た頃は、僕はあそこに住んでいたのだ。
 その頃、僕のうちの隣りに、まあ狂女と云うのだろう、妙な女がひとり住んでいた。たび重なる不幸で頭が変になってしまったんだね。話はすこし昔にかえるが、この女は二十五の年紀に、たった一月のうちに、その父親と夫と、生れたばかりの赤ン坊を亡くしてしまったのだった。
 死と云うやつは、一たびどこかの家へ這入ると、それから後は、もうその家の入口をすっかり心得てでもいるように、すぐまたその家を襲いたがるものらしい。
 年わかい女は、可哀そうに、その悲しみに打ちのめされて、どッと床に臥就いてしまい、六週間と云うものは譫言ばかり云いつづけていた。やがて、この烈しい発作がおさまると、こんどは、倦怠とでも云うのだろう、どうやら静かな症状がつづいて、さしもの彼女もあまり動かなくなった。食事もろくろく摂ろうとはせず、ただ眼ばかりギョロギョロ動かしていた。誰かがこの女を起そうとすると、そのたびに、今にも殺されでもするかと思われるように、声をたてて泣き喚くのだった。まったく手がつけられない。で、この女はしょッちゅう寝かしっきりにされていて、身のまわりのこととか、化粧の世話とか、敷蒲団を裏返すような時でもなければ、誰も彼女をその蒲団のなかから引ッぱり出すようなことはしなかった。
 年老いた下婢がひとり彼女のそばに附いていて、その女が時折り飲物をのませたり、小さな冷肉の片を口のところまで持っていって食べさせてやったりしていた。絶望の底にあるこの魂のなかでは、どんなことが起っていたのだろう。それは知るよしも無かった。彼女はもう口をきかないんだからね。死んだ人たちのことでも考えていたのだろうか。はッきりした記憶もなく、ただ悲しい夢ばかり見つづけていたのだろうか。それともまた、思想というものが跡形もなく消え失せてしまって、流れぬ水のように、一ところに澱んだままになっていたのだろうか。
 十五年という永い年月の間、彼女はこうして一間にとじ籠ったまま、じッと動かなかった。
 戦争が始まった。十二月のこえを聞くと、この町にも普魯西の兵隊が攻めて来た。
 僕はそれを昨日のことのように覚えている。石が凍って割れるような寒い日のことだった。痛風がおきて僕自身も身動きが出来なかったので、ぼんやり肱掛椅子に凭りかかっていた。折しも僕は重々しい律動的な跫音をきいた。普魯西の軍隊が来たのだ。そして僕は窓から彼等の歩いてゆく姿を眺めていた。
 普魯西兵の列は、蜿蜒として、果てしもなく続いた。どれを見てもみな同…

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