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大阪といふところ
おおさかというところ
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「隨筆」 改造社
1936(昭和11)年11月20日
初出「大阪朝日新聞」大阪朝日新聞社、1933(昭和8)年1月3日
入力者小林徹
校正者kamille
公開 / 更新2006-10-25 / 2014-09-18
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 は仁徳天皇のころから既に開けた都會であることは申すに及ばない。聖徳太子の四天王寺や、蓮如上人の石山本願寺建立に因みて、抹香臭い氣持ちがする。しかし豐臣秀吉が爭亂を平定して、こゝに築城してから、その空氣は一新し、大阪の本質を發揮した。大阪は海灣に面して、淀川は舟楫の便あり、四通八達、物資の集散地として、屈強な地の利、水の利がある。かくの如き土地が開發されるのは、自然の勢であつて、淀川の河身改良を行ひ、そのデルタに運河を疏通すれば、工、商業はおのづから發展する。往時ヴェニスが歐亞の交通上一時覇を唱へてゐた歴史に鑑みれば、大阪は關西方面の商賈出入の關門となつてゐたことは當然である。今日その勢力圈はますます擴張して、東洋貿易の覇權を握らんとする形勢になつて來た。
 ヴェニスに遊んだ人には、中世紀から傳はつたゴンドラが昔を偲ばしむる好材料である。大阪にも半世紀前には底の平なゴンドラらしい柴舟が澤山浮いてゐた。ゴンドラに比ぶれば美術的でなく、むしろ實用向きに造られた。徳川時代に伏見と天滿橋の間を往復した三十石は、その大形であつて、維新前の交通が頗る悠長であつたことを思はしむる。
「淀川三十石、のぼりくだりの川中で、御客をとらへて、喰はんか、くらはんか、ポンポコネ、ポンポコ/\ポンポコネ」
といふ端唄がある。予は稚ないころ伏見に往復したことがある。三十石は棹で押すか、綱で引くか、瀬の工合で共用したのである。一晩かゝつて伏見、大阪を聯絡するのだから、今日の電車や汽車が網を張つた、スピード時代には思ひもよらぬ、遲い交通機關であつた。しかしそのころから大阪魂とでもいふべきものは、喰はんか舟の呼聲に提唱された。
 喰はんか舟は食料品を載せた片家根の柴舟であつた。三十石を川中で邀撃して、乘客に菓子や酒を賣付ける。
「くらはんか、くらはんか、牛蒡汁[#「牛蒡汁」は底本では「午蒡汁」]、あん餅くらはんか、卷ずしどうぢや、酒くらはんか、錢がないのでようくらはんか」
 と叫んだ。船中で眠い眼をこすりこすり聞けば、いかにも横柄で、こんな奴の品物を買ふもんかと思はしむる。しかし賣子をかすかな燈に照して見れば、しわくちや翁が、水洟たらして、舟を三十石に横付にし、物品と錢の交換を始める。錢は一度握つたら容易に離さぬ風勢で、喰はんか喰はんかと呼んでゐた。夜半空腹となつたころであれば、呼聲に愛想つかしても買はないわけには行かぬ。末の句で錢がないのでよう喰はんかといはれると、意地にも買はざるを得ない。錢の價値をこんなに強調してゐるのは、大阪當時の精神を吐露してゐる。地獄の沙汰も金次第、錢のまうからない奴は相手にならぬ。錢の價値を知らぬ奴は世渡りができぬ。算盤珠のはぢけぬ奴は仲間に入れぬといはぬばかりの口調である。實に徳川の威令嚴かなるころ、この語調を弄して憚らなかつたのは、大阪氣性に叶つたからであるが…

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