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銅銭会事変
どうせんかいじへん
作品ID43662
著者国枝 史郎
文字遣い新字新仮名
底本 「銅銭会事変 短編」 国枝史郎伝奇文庫27、講談社
1976(昭和51)年10月28日
初出「週刊朝日 春季特別号」1926(大正15)年4月1日
入力者阿和泉拓
校正者湯地光弘
公開 / 更新2005-03-25 / 2014-09-18
長さの目安約 73 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

    女から切り出された別れ話

 天明六年のことであった。老中筆頭は田沼主殿頭、横暴をきわめたものであった。時世は全く廃頽期に属し、下剋上の悪風潮が、あらゆる階級を毒していた。賄賂請託が横行し、物価が非常に高かった。武士も町人も奢侈に耽った。初鰹一尾に一両を投じた。上野山下、浅草境内、両国広小路、芝の久保町、こういう盛り場が繁昌した。吉原、品川、千住、新宿、こういう悪所が繋昌した。で悪人が跋扈した。
 その悪人の物語。――
 梅が散り桜が咲いた。江戸は紅霞に埋ずもれてしまった。鐘は上野か浅草か。紅霞の中からボーンと響く。こんな形容は既に古い。「鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春」耽溺詩人其角の句、まだこの方が精彩がある。とまれ江戸は湧き立っていた。人の葬式にさえ立ち騒ぐ、お祭りずきの江戸っ子であった。ましてや花が咲いたのであった。押すな押すなの人出であった。さあ江戸っ子よ飜筋斗を切れ! おっとおっと花道じゃあねえ。往来でだ、真ん中でだ。ワーッ、ワーッという景気であった。

 その日情婦から呼び出しが掛かった。若侍は出かけて行った。
 いつも決まって媾曳をする、両国広小路を横へ逸れた、半太夫茶屋へ足を向けた。
 女は先刻から待っていた。
 やがて酒肴が運び出され、愉快な酒宴が始められた。
 そうだいつもならこの酒宴は、非常に愉快な酒宴なのであった。
 この日に限って愉快でなかった。女の様子が変だからであった。ろくろく物さえいわなかった。下ばっかり俯向いていた。そうして時々溜息をした。
「おかしいなあ、どうしたんだろう?」若侍は気に掛かった。
 と、女が切り出した。別れてくれというのであった。
 これには若侍も面食らってしまった。で、しばらく黙っていた。
 不快な沈黙が拡がった。
「ふふん、そうか、別れようというのか」こう若侍は洞声で云った。
「余儀無い訳がございまして……」
 女の声も洞であった。
 また沈黙が拡がった。
「別れるというなら別れもしよう。だが理由が解らないではな」
「どうぞ訊かないでくださいまし」女は膝を手で撫でた。
「どうもおれにはわからない。藪から棒の話だからな」若侍は嘲けるようにいった。相手を嘲けるというよりも、自分を嘲けるような声であった。「では今日が逢い終いか。ひどくさばさばした別れだな。いやその方がいいかもしれない。紋切り型で行く時は、泣いたり笑ったり手を取ったり、そうでなかったらお互いに、愛想吐かしをいい合ったり、色々の道具立てが入るのだが、手数がかかり時間がかかりその上後に未練が残り、恨み合ったり憎んだり、詰まらないことをしなければならない。そういうことはおれは嫌いだ。いっそ別れるならこの方がいい。女の方から切り出され、あっさりそれを承知する。アッハッハッ新しいではないか」
 決して厭味でいうのではなかった。それは顔色や眼色で知れ…

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