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「親近」と「拒絶」
「しんきん」と「きょぜつ」
作品ID43692
著者梶井 基次郎
文字遣い旧字旧仮名
底本 「梶井基次郎全集 第一卷」 筑摩書房
1999(平成11)年11月10日
初出「作品」1931(昭和6)年9月号
入力者土屋隆
校正者高柳典子
公開 / 更新2005-05-24 / 2014-09-18
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     「スワン家の方」誌上出版記念會

 佐藤君と淀野の譯したこんどの本を讀んで見て第一に感じることは、プルウストといふ人がこの小説において「回想」といふことを完成してゐるといふことだ。その形而上學から最も細かな記述に至るまですつかりがこのなかにあると云つていい。しかし何から何までべた一面に書いたといふのではなくて、これにはプルウストの方法といふものがあつて、それによつて僕達は恰度經驗を二度繰り返すやうな思ひをさされるのだ。プルウストは意志的な記憶、理智の記憶といふやうなものでは決してこの回想を書いてゐない。プルウストの書いたことを引合ひに出して來れば、
「われわれが過去を喚起しようとするのは徒勞であり、われわれの理知のあらゆる努力は空しい。過去は、理智の領域のそと、その力のとどかないところで、思ひもかけない、何か物質的な物體のなかに(その物質的な物體がわれわれに與へるだらう感覺のなかに)隱されてゐる。」
 このやうな過去によつてプルウストは書いてゐるのだ。
 その前をもう少し出して來ると――
「私はあのケルト民族の信仰を非常に尤ものことと思ふ。それは、われわれの失つた人の魂が何か下等なもの、獸類とか、植物とか、無生物とかのなかに閉ぢ籠められてゐて、われわれがその木の傍を通るとか、その魂の捕へられてゐる物を所有するとかいふ日が來るまでは、(多くの魂にとつては、さういふ日は決して來ないのだが、)實際その魂はわれわれに失はれてゐる。その日が來ると魂は顫へ、われわれを呼ぶ、そしてわれわれがそれを認めると直ぐに、咒縛は破れるのだ。われわれによつて自由にされた魂は死を征服して、われわれの許に歸つて一緒に生きるといふのである。われわれの過去についてもこれと同樣である。」
 プルウストは過去といふものをこのやうに考へてゐる。またこのやうな考へから導き出されて來た方法はこの小説の全部に浸みわたつてゐて、どのやうに微細な感情のニユアンスでも彼は掴まへて來て生命を與へる。それによつて僕達はさきほども云つた經驗を二度繰返す切ない思ひにとらはれるのだ。
 プルウストのこのやうな考へ方は「失ひし時を索めて」と表題の脇に記された言葉でも明かだが、失つた記憶が生き返つて來るのはこんな風に全然他力で偶然で、そんな偶然が生涯にいくらあることか、われわれはそんな偶然をすつかり逃してしまはないために際限もなく待つてゐるといふ譯にはいかないので、次には死といふもう一つの偶然が僕達をさらつていつてしまふと感慨を洩らしてゐる所など、いかにも過去の思ひ出のみに生きたプルウストらしく僕達の感慨を強ひるのだ。しかしこれはまた一方、題材を狹い心内の世界に限りながら何册もの大作を書いたプルウストの意氣込みとも見ていいので、彼がどんなに尻を落付けてこの回想を綴らうとしてゐるかがわかるのだ。實際プルウストの尻の…

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