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踊る地平線
おどるちへいせん
作品ID4373
副題09 Mrs.7 and Mr.23
09 ミセス セブン アンド ミスター トゥウェンティスリー
著者谷 譲次
文字遣い新字新仮名
底本 「踊る地平線(下)」 岩波文庫、岩波書店
1999(平成11)年11月16日
入力者tatsuki
校正者米田進
公開 / 更新2003-01-18 / 2014-09-17
長さの目安約 57 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     1

 蜜蜂の群の精励を思わせる教養ある低い雑音の底に、白い運命の玉がシンプロン峠の小川のような清列なひびきを立てて流れていた。
 シャンベルタンの谷の冬の葡萄畑をロウザンヌ発大特急の食堂車の窓から酔った眼が見るような一面に暖かい枯草色のテュニス絨毯なのである。それを踏んで、あたしいま香料浴を済ましてきたところなの、と彼女の全身の雰囲気が大声に公表している、中年近い女が来て私の横にならんだ。肘が私に触れて、彼女が言った。
『数は? 何が出て?』
 答えるまえに、私はゆっくりとその女を研究した。
 近東型の広い紺いろの顔が、八月の地中海が誇る銀灰色のさざなみによって風景画的に装飾されていた。私はきのうモナコの岩鼻から見物したモウタ・ボウトの国際競争を聯想しなければならなかった。しかし私は、そのことは彼女に話さなかった。彼女の臙脂色の満唇と黒いヴェネツィア笹絹の夜礼服とが、いつかラトヴィヤのホテルで前菜に食べた、私の大好きな二種の露西亜塩筋子の附け合せと同じ効果を出していたからだ。私は鋭利な食慾を感じた。そして食慾はいつも私を無言にする。で、私は私の視線を彼女の下部に投げることによって、この、自分の娘よりも若いに相違ない中婆さんを慰楽しようと試みた。
 彼女の属する社会層は瞬間の私にとって完全な神秘だった。が、私はいま何よりもじぶんのいる場処をはっきりと認識しなければならない。このモンテ・カアロの博奕場では、どんな神秘も個人の関心を強いはしないのだ。じっさいいかに小さな異常現象へでもすこしの好奇心を振り向けることは、ここの多角壁の内部ではそれだけで一つの「許せない規則違反」なのだ。そこで私はただ聖マルタン水族館の門番のように、黙ったままこころのなかで彼女の足へ最敬礼することで満足したのである。
 がめたるの靴下が慄悍な脛を包んで、破けまいと努力していた。その輪廓は脂肪過多の傾向からはずっと遠かった。アキレス氏腱は張り切って、果物ナイフの刃のように外へむかってほそく震えていた。私の眼にも判る一大きさ小さなゴブラン織りの宮廷靴が、蹴合いに勝って得意な時の鶏の足のような華奢な傲慢さで絨毯の毛波を押しつけていた。彼女が足を移動すると、そのけばは一せいに起き上って、絨毯のうえの靴あとが見てる間に周囲に吸われて消えた。あまり繊細に、そして音律的に足が動くので、そのうちに私は、じつは彼女が、咽喉の奥で唄う高速度曲に合わせてブダペスト風の踊りを真似してるのであることを知った。
『ね、何を見ていらっしゃるの?』
 この中婆さんは微笑らしいもので私の近代的騎士性を賞美するのである。それから彼女は、伊太利RIVIERAの聖レモで、眼と声の腐った不潔な少女達が悪魔よけの陶製の陽物と一しょに売ってる、羅馬皮に金ぴかの戦車を飛び模様に置いた手提をあけて、煙草の挟んでない象牙の長パ…

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