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夢は呼び交す
ゆめはよびかわす
副題――黙子覚書――
――もくしおぼえがき――
原題黙子覚書
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「夢は呼び交す」 岩波文庫、岩波書店
1984(昭和59)年4月16日
初出「藝林間歩」1946(昭和21)年6月~1947(昭和22)年5月
入力者広橋はやみ
校正者土屋隆
公開 / 更新2007-12-25 / 2016-01-30
長さの目安約 211 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

  書冊の灰



 二月も末のことである。春が近づいたとはいいながらまだ寒いには寒い。老年になった鶴見には寒さは何よりも体にこたえる。湘南の地と呼ばれているものの、静岡で戦災に遭って、辛い思いをして、去年の秋やっとこの鎌倉へ移って来たばかりか、静岡地方と比べれば気温の差の著るしい最初の冬をいきなり越すことが危ぶまれて、それを苦労にして、耐乏生活を続けながら、どうやら今日まで故障もなく暮らして来たのである。珍らしく風邪一つひかない。好いあんばいに、おれも丈夫になったといって、鶴見はひとりで喜んでいる。
「梅がぽつぽつ咲き出して来たね。」
 鶴見は縁側をゆっくり歩いて来て、部屋に這入りしなに、老刀自に向って、だしぬけにこういった。静かに振舞っているかと見れば性急に何かするというようなのが、鶴見の癖である。
「梅がね。それ何というかな。花弁を円く畳み込んでいる、あの蕾の表の皮。花包とでもいうのかな。紫がかった褐色の奴さ。あれが破れて、なかの乳白な粒々が霰のように枝一ぱいに散らかって、その中で五、六輪咲き出したよ。魁をしたが何かまだおずおずしているというような風情だな。それに今朝まで雨が降っていたろう。しっとりと濡れていて、今が一番見どころがあるね。殊に梅は咲き揃うと面白くなくなるよ。」
 鶴見はいっぱしの手柄でもした様子で、言葉を多くして、はずみをつけて、これだけの事を語り続けた。
「そうですか。だんだん暖くなって来ます。もう少しの辛抱でございますね。」
 刀自はあっさりとそういったきりで、縫針の手を休めない。不足がちな足袋をせっせと綴くっているのである。傍に置いてある電熱器もとかく電力が不調で、今も滅えたようになっている。木炭は殆ど配給がなく、町に出たときコオライトというものを買って来て、臭い煙の出るのを厭いながら、それを焚いていたが、それさえ供給が絶えてから、この電熱器を備え付けたのである。
 しかしこの日はどうしたことか、鶴見は妙にはしゃいでいる。いつもの通り机の前に据わって、刀自の為事をする手を心地よく見つづけながら、また話しだした。
「あの梅を植えたときのことを覚えているかい。まだずぶの若木であったよ。それがどうだろう、あんな老木になっている。無理もないね。あの関東大震災から二十年以上にもなるからな。」
 そういって感慨に耽っているようであるが心は朗らかである。鶴見は自分の年とったことは余り考えずに、梅の老木になって栄えているのを喜んでいる。
 鶴見は震災後静岡へ行って、そこで居ついていたが、前にもいった通り戦火に脅かされて丸裸になり、ちょうど渡鳥が本能でするように、またもとの古巣に舞い戻って来たのである。かれにはそうするつもりは全くなかったのであるが、ふとしてそういうことになったのを、必然の筋道に牽かされたものとして解釈している。安心のただ一つの拠り…

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