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次郎物語
じろうものがたり
作品ID43789
副題02 第二部
02 だいにぶ
著者下村 湖人
文字遣い新字新仮名
底本 「下村湖人全集 第一巻」 池田書店
1965(昭和40)年7月10日
入力者tatsuki
校正者松永正敏
公開 / 更新2006-01-03 / 2015-03-07
長さの目安約 300 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

    一 それから

 母に死別してからの次郎の生活は、見ちがえるほどしっとりと落ちついていた。彼は、なるほど、はたから見ると淋しそうではあった。彼の眼の底に焼きつけられた母の顔が、何かにつけ、食卓や、壁や、黒板や、また時としては、空を飛ぶ雲のなかにさえあらわれて、ともすると、彼の気持を周囲の人たちから引きはなしがちだった[#「だった」は底本では「たった」]のである。しかし、母が、臨終の数日まえに、
「あたしは、乳母やよりももっと遠いところから、きっと次郎を見ててあげるよ。だから、……だから、腹が立ったり、……悲しかったりしても……」
 と息をとぎらせながら言った言葉が、いつも力強く彼の心を捉えていた。で、彼自身としては、彼が孤独に見える時ほど、かえって気持が落ちついていたとも言えるのだった。
 彼は、正木のお祖母さんといっしょに、よくお墓詣りをした。お墓の前にしゃがむと、彼は拝むというよりは、じっと眼をすえて地の底を見透そうとするかのようであった。彼は、母の屍体が日ごとにくずれて行っているなどとは、微塵も思いたくなかった。彼が地下数間のところに想像するものは、いつも、ほのかな光のなかにうき出した大理石像のようなものだった。この大理石像は、お墓詣りがたび重なるにつれて、いよいよ鮮明になって行った。しかも、不思議なことには、その顔は、彼の記憶に残っている母の顔そのままのものではなかった。それは、もっと美しい、神々しい顔だった。やや伏眼に半眼にひらいた眼つきには、どこかに観音さまを思わせるものさえあった。
 次郎は、学校の綴方の時間に、このごろ感じたことを何でもいいから書け、と先生に言われて、「地下に眠る母」という題で、お墓詣りのおりのこうした感じを、そのまま書いて出した。すると、そのつぎの綴方の時間には、先生は、みんなのまえでそれを朗読したあと、黒板の横の壁にピンで貼り出した。題のうえには三重圏が朱で大きく書いてあり、文末には、
「先生も思わず静かな気持に誘いこまれてしまいました。君の孝心がこの名文を書かせたものと思います。」
 と記してあった。
 次郎は、しかし、先生が朗読をはじめた瞬間、後悔に似た感じに襲われた。ひとりで大事にしまっておいたものを、だしぬけに人に見つかったような気がしてならなかったのである。彼は最初顔をまっかにした。が、朗読が終るころには、むしろ青ざめていた。そして、休み時間になって、みんなが黒坂のそばに押しよせた時には、飛びこんでいってそれを引っぱがしたいような気にさえなった。
 次郎にとっては、彼の記憶に残っている実際の母の顔と、墓詣りをするうちに描き出した母の顔とは、決してべつべつのものではなかった。彼自身では、母の顔を二様に思い浮かべているとは、ほとんど意識していなかったほど、まったく自然に、時に応じて、そのどちらかが彼の眼に浮か…

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