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三筋町界隈
みすじまちかいわい
作品ID43793
著者斎藤 茂吉
文字遣い新字新仮名
底本 「斎藤茂吉随筆集」 岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年10月16日
初出「文藝春秋」1937(昭和12)年1月号
入力者五十嵐仁
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2006-02-08 / 2014-09-18
長さの目安約 30 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

       一

 この追憶随筆は明治二十九年を起点とする四、五年に当るから、日清戦役が済んで遼東還附に関する問題が囂しく、また、東北三陸の大海嘯があり、足尾銅山鉱毒事件があり、文壇では、森鴎外の『めさまし草』、与謝野鉄幹の『東西南北』が出たころ、露伴の「雲の袖」、紅葉の「多情多恨」、柳浪の「今戸心中」あたりが書かれた頃に当るはずである。東京に鉄道馬車がはじめて出来て、浅草観音の境内には砂がき婆さんのいたころである。この砂がき婆さんは一目眇の小さな媼であったが、五、六種の色の粉末を袋に持っていて人だかりの前で、祐天和尚だの、信田の森だの、安珍清姫だの、観世音霊験記だのを、物語をしながら上下左右自由自在に絵を描いて行く、白狐などは白い粉で尾のあたりからかいて、赤い舌などもちょっと見せ、しまいに黒い粉で眼を点ずる、不動明王の背負う火焔などは、真紅な粉で盛りあげながら描くといったような具合で、少年の私は観世音に詣ずるごとに其処を立去りかねていたものである。その媼もいつのまにか見えなくなった、何時ごろどういう病気で亡くなったか知る由もなく、また媼の芸当の後継もいず、類似のわざをする者も出ずにしまったから、あれはあれで絶えたことになる。その頃助手のようなものは一人も連れて来ずに、いつも媼ひとりでやって来ていた。またその粉末も砂がきとはいえ、砂でなくて饂飩粉か何かであったのかも知れず、それにも一種の技術があって万遍なく色の交るように拵えてあったのかも知れないが、実際どういうものであったか私にはよく分からぬ。また現在ああいうものが復興するにせよ、時代には敵わぬだろうから、あの成行きはあれはあれで好かったというものである。
 鉄道馬車も丁度そのころ出来た。蔵前どおりを鉄道馬車が通るというので、女中に連れられて見に行ったことがある。目隠しをした二頭の馬が走ってゆくのは、レールの上を動く車台を引くので車房には客が乗っている。私が郷里で見た開化絵を目のあたり見るような気持であったが、そのころまでは東京にもレールの上を走る馬車はなかったものである。この馬車は電車の出来るまで続いたわけである。電車の出来たてに犬が轢かれたり、つるみかけている猫が轢かれたりした光景をよく見たものであるが、鉄道馬車の場合にはそんな際どい事故は起らぬのであった。

       二

 そういうわけで、私は数えどし十五のとき、郷里上ノ山の小学校を卒え、陰暦の七月十七日、つまり盆の十七日の午前一時ごろ父に連れられて家を出た。父は大正十二年に七十三歳で歿したから、逆算してみるに明治二十九年にはまだ四十六歳のさかりである。しかし父は若い時分ひどく働いたためもう腰が屈っていた。二人は徒歩で山形あたりはまだ暁の暗いうちに過ぎ、それから関山越えをした。その朝山形を出はずれてから持っていた提灯を消したように憶えている。…

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