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落葉日記
おちばにっき
作品ID43805
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集11」 岩波書店
1990(平成2)年8月9日
初出「婦人公論 第二十一巻第六号~第二十二巻第五号」1936(昭和11)年6月1日~1937(昭和12)年5月1日
入力者門田裕志
校正者岡村和彦
公開 / 更新2018-03-05 / 2018-02-25
長さの目安約 225 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

一の一

 郷田梨枝子は、叔母と並んで東京駅のプラット・フォームに立つてゐる。そして、今着いたその汽車から降りて来る筈の父親の顔をちつとも覚えてゐないのである。
「すぐ教へてね、叔母さま……。いやだわ、いろんな人が顔を突き出して……」
「ああ、お待ちなさいつてば……。あたしだつて間違ふかも知れないよ」
 心細い話だが、これも十年会はないうちに、兄がどんなに変つてしまつたか、さつぱり見当がつかなかつた。
 震災の翌々年、郷田廉介は妻のアメリイを喪つて、鬱々としてゐるのを、周囲のものが励ますやうにして二度目の外遊を思ひ立たせた。それが、専門の研究を名とした悠々十年の旅である。当時八歳の梨枝子は、まだアンリエットと亡き母の好みの名で呼ばれてゐた無心の少女であつたが、すぐに祖母の下枝子に懐いて、文字通りおとなしくその留守をした。
「よう、一枝ぢやないか」
 果して、ぼんやりしてゐる妹の眼の前に、長身赭顔の一紳士が立ち塞がつた。
「あら、兄さま……しばらく……お元気で……」
 と、あとはもう涙声になつて、
「これ、兄さま、アンリエット……こんなになりましたわ」
 まだポカンとして、それでも、眼だけは笑ふ用意をして眩しさうにこつちを見据ゑてゐる娘の肩を、軽く押へた。
「ふむ……キスしてもいいかい?」
「ええ」
 うなづくと一緒に、頬を差出したが、父は額にそつと唇を押しあてた。
「さ、パパにもしてくれるか」
 父のナポレオン三世風の頬髯がチクリとした。やつと胸の動悸が鎮まりかけた。彼女は、この時、祖母から予て聞かされてゐた可笑しな逸話を思ひ出した。それは、彼女が小さな時分、父に頬ずりをされて、
「パパの骨、イタイ」
 と云つて逃げたといふ話である。
「兄さま、でも、ちつともお変りにならないわ」
 叔母がさういふと、
「おや、変だぜ、さつきは、さうでもなかつたやうだが……」
「いいえ、よく見るとよ……それや、お髭なんか前とはすつかり……」
「写真は送らなかつたかね」
「パパは、何時でも小さく写つてるんですもの……景色ばつかり大きくつて……」
 梨枝子がはじめて、馴れ馴れしく口を利いた。
「パパより大きな景色か。それや、大きいさ、リエット、景色つていふもんは……」
 そんな戯談口をきき合つてゐるうちに、ふと、梨枝子は、祖母の容態のことが気にかかり出した。出がけに眩暈を起して倒れたのをそつと床に就かせて、医者を呼んだのだが、少し気分が落ちつくと、もう出掛けると云つて承知しなかつた。それを医者が厳しい言葉で止めた。
「ぢや、一人で行くかい、あたしのことは心配しないで……、ああ、早くパパに会つておいで……あたしの分も頼んだよ」
 そんな言葉が妙に耳に残つてゐる。で、梨枝子は、叔母の耳に、そつと囁いた。
「お祖母さまのこと、パパに云つといた方がいいわね」
 うんうんと首だけで返事をし…

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