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現代美学の危機と映画理論
げんだいびがくのききとえいがりろん
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「増補 美学的空間」 叢書名著の復興14、新泉社
1977(昭和52)年11月16日
初出「映画文化 一号」1950(昭和25)年5月
入力者鈴木厚司
校正者染川隆俊
公開 / 更新2010-10-03 / 2014-09-21
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)
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本文より


 個人主義文化が、封建主義文化を引きはなすために、戦った歴史の跡は決して容易なものではなかった。幾千の人が火であぶられ幾万の人が鎖でつながれたかわからない。一六〇〇年代は、大きなその闘いの記念すべき世紀であった。一九〇〇年代もまた、今後の歴史家がその研究の対象とするであろうと思われる記念すべき世紀となるであろう。今や、個人主義文化そのものがその危機にのぞんでいる。私達は、その大いなる世紀の正に只中に立っている。
 封建主義的文化に於ては、一つの特徴がある。即ち地上的なるものは天上的なるものから造られたるもの(ens creatum)である。天上的なるものは完全なる理念であり、支配するものであり、これに反して地上的なもの(つまり凡ての現実)は不完全なもの、暗黒であり、支配されるものであることとなるのである。そして芸術は、この地上的なものが天上的なものを夢見、仮にわけもち、あこがれることで現実を遊離して象徴の中に没入することとなるのである。そこで芸術はプラトン、アリストテレスの学説の如く、理念の模倣(mim[#挿絵]sis)となったのである。美は常に、何か賤しいものが宮殿にまぎれ込む夢のようなもの、シンデレラ姫のようなものとなった。
 個人主義文化では、実はこれと正に反対となった。この地上的なものを作った天上のものとしての主体(subjectum)は崩れ去って、否、崩し去って、否、闘うことで読み違えて、主観(subject)なる意味を歴史的に新たに創造した。
 天の下に地があって、地は卑しいものとして、天をあこがれていたものが、愕然たる覚醒をもって、地球が円いものだと云うことを発見した。天体の回転体系を測定し定めることが出来るのは、人間だけであり、しかも人間の主観の中の理性がそれを知ることが出来るのである。宇宙の中心は自分であり、機械的法則の宇宙よりも、それを測定出来る自分がはるかに尊厳であることを考えぬいたカントは、まさに思想のコペルニクス的転回をやってのけたのである。
 これは大いなる発見であり、美の世界をもでんぐりかえした。彼は、自然よりも人間の自由がより高いものであり、美とは、自然の中に人間の自由を感得することであると考えたのである。自然の中に理性的なるものを発見し、創造するものと考えたのである。
 あたりまえの事を考えついたのであるが、封建時代の考え方をたち切ってここまで来るのには、鎖の様なものを頭の中で切って捨てなければならなかったに違いない。
 そして芸術は、個人の主観が創造するものと初めてなったのであった。
 やがてかかる考え方が徹底してあらわれたのが、オスカー・ワイルドの言葉、「芸術は決して自然の模倣ではない、寧ろ自然が芸術の模倣である。一体自然とは何であるか、自然は我々を生んだところの大いなる母親ではない、自然こそ我々の創ったものである」…

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