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緑の星
みどりのほし
作品ID43850
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集16」 岩波書店
1991(平成3)年9月9日
初出「スタイル読物版 第二巻第二号」1950(昭和25)年2月1日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-12-03 / 2014-09-16
長さの目安約 28 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 ヨーロッパ通ひの船が印度洋をすぎて、例の紅海にさしかかると、そこではもう、太古以来の沙漠の風が吹き、日が沈む頃には、駱駝の背越しに、モーヴ色の空がはてしなくつづくのが見える。
 その時、海の旅にあきた誰れかれの眼に、きまつて妖しく映るのは、地平線のうへに、次ぎから次ぎへと湧きでる、あの星ともいへぬ星、ひとつひとつが胸飾りのやうに鮮明な、エメラルドの星のまたたきである。

 深草乃里は、二十何年か前の秋の航海で、その星の輝きがひとしほ眼の底に残つた、ある一夜の出来事を想ひ出してゐる。
 どうして急にそんな記憶がよみがへつたか、もちろん、今日までそのことを、片時も忘れたことはないのだが、この日に限つて、彼女は、あの甲板の上で仰ぎみた真夜中の星の色を、まざまざと眼にうかべ、もう、六十に手のとどく皺だらけの頬に、われしらずぽつと血ののぼるのを感じた。
 深草乃里は、現在、ある高原避暑地のホテルで、女中頭をつとめてゐる。若い頃から欧洲航路の客船で船室係をしてゐた経験が、船をおりてからもかういふ仕事をえらばせたのである。ずんぐりと肥つたからだに、丈長の黄色い毛糸のスエーターを着込んだ姿は、ホテルの客の眼をある意味でひいてゐた。年も年、どちらかといへば、大造りないかつい眼鼻だちで、そのうへ必要以上に取り澄ました表情が、機械的な動作とともに、およそ色気とは縁の遠い存在であつたが、ただ、ハイヒールの音を小刻みに響かせて、絶えずあちこちへ眼をくばつて歩き、事務的で、しかも、行き届いたサーヴィスぶりを、自分ながら得意にしてゐるらしい愛嬌は、旅慣れた客なら、年期を入れた女中頭のタイプだといふことがすぐにわかる。その上、ふだんはむつつりしてゐるかと思ふと、案外、気心の知れた滞在客などには、馬鹿丁寧な切口上で、聞きたくもない世間話をしかけることがある。
 夏が過ぎると、客はぐつとへる。それでも、紅葉の頃には、団体の予約もあり、冬は冬で、スキイ場まではすこし遠いけれども、ここを足場に撰ぶ幾組かの若い泊り客がある。
 今年も、やがて涼風が立ちはじめ、ホテルはひつそりと静まりかへり、人手もぐつと少くして、そろそろ冬の支度にストーヴの薪を仕入れる頃になつた。ところが、夏場からずつと一人きりで、病気の保養に来てゐる相原夫人だけは、まだいつかうに引上げさうもない。ちよつと見たところでは、呼吸器がわるいとも思へぬ溌剌とした三十そこそこの女性で、主人も子供も東京にゐるといふのに、この二た月以来、ついぞ誰も訪ねて来ず、誰に会ひに行くでもない、いはば孤独無聊な生活をけつこう楽しんでゐる風がみえた。午前中は散歩と読書、午後は一定時間の午睡をとると、また読書と散歩、夕食後は、きまつて、階下のポーチで好みのレコードを聴くのが日課であつた。ほかの客とは、めつたに口をきかうとせず、たまに話相手にするのは、大学生に…

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