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修道院の秋
しゅうどういんのあき
作品ID4386
著者南部 修太郎
文字遣い旧字旧仮名
底本 「新進作家叢書22 修道院の秋」 新潮社
1918(大正7)年9月6日
初出「三田文學」1916(大正5)年11月号
入力者小林徹
校正者林幸雄
公開 / 更新2002-05-29 / 2014-09-17
長さの目安約 25 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「好いかよう……」
 と、若い水夫の一人が、間延びのした太い聲で叫びながら船尾の纜を放すと、鈍い汽笛がまどろむやうに海面を掠めて、船は靜かに函館の舊棧橋を離れた。
 港の上にはまだ冷冷とした朝靄が罩め渡つて、雨上りの秋空は憂ひ氣に暗んでゐた。騷がしい揚錨機の音、出帆の相圖の笛の響などが、その重く沈んだ朝の空氣を顫はしながら聞える。蒼黒く濁つた海は果敢ない空の明るみを波の背に映しながら、絶えず往き來する小蒸汽の蹴波に搖いでゐた。時時白い鴎の群が水を滑るやうに低く飛んで、さつと身を飜しては船の陰に隱れる。そして何時の間にか雪を散らしたやうな點になつて、遠くの波の間にふんはりと浮ぶ。荷役に忙しい樺太や釧路通ひの汽船や、白いペンキの醜く剥げ落ちた帆船の中には、舷の低い捕鯨船の疲れたやうな姿が横はつてゐる。私の船はその間を緩かに進んで行つた。
 眼に映るすべては、秋の訪れ速かな北國の寂しい朝の姿であつた。港を包む遠近の山の頂には冷たい色の雲が流れて、その暗い陰影に劃られた山山の襞には憂欝と冷酷の色が深く刻まれてあつた。北國の旅人はその自然に對して何等の親しみも温みも感じることが出來ない。時には世に反く孤高の聖者の如く、時には荒み果てた心冷かな廢人の如く、北國の自然は常に彼と離れて立つてゐる。彼は孤獨を感じる。そして自然と人との間に近づき難いやうな壁のあることを意識する。美しさがあつても、輝きがあつても、それは大理石の刻像のやうに血がない熱がない。山を仰いでも海を眺めても、北國の旅人の心に迫るものは、常に云ひ知れぬ空虚と寂寞の感じである。
 私は昨夜の雨に濡れた船首の甲板の上に立ちながら、そんなことを考へてゐた。そして所在なきままに煙草に火を點けては、しきりなく吸つた。
 船は何時しか埠頭を遠く離れてゐた。振り返ると、灰色の秋空の下に、函館の町が一目に見える。海から眺める町の感じは何處となく Exotic で、あの古めかしい鉛色の瓦屋根のないことが日本の町らしい親しみを薄くする。然し右手の臥牛山の中腹から、やや急な傾斜を作つて、入り亂れた家家が流れるやうに大野の平地の方へ擴がつてゐる地形の面白さが私の眼を惹いた。處處に寺院の屋根や洋館の塔などが際立つて聳えてゐる。
「あの森の蔭が五稜廓だね……」と、船員に訊ねてゐる爺さんがゐた。少し白髮混りの頤鬚をしごきながら、何か云つては時時聲高く笑ふ。面白い、人の好ささうな爺さんである。私も思はず釣り込まれて、譯もなく笑つたりした。
「好い凪ぎだな。」と、彼は獨言のやうに云つて、微笑しながら海を見廻した。
 私はまた煙草に火を點けて、甲板の片隅の蓙の上に腰を降した。冷たい潮風が絶えず頬を流れて、紫色の煙草の烟をすいすいと消して行つた。
「修道院へお出でですか。」と、突然私に話し掛けた人があつた。
「さうです。」と、私は立ち上つて、彼…

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