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死者の書
ししゃのしょ
作品ID4388
著者折口 信夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「死者の書」 中公文庫、中央公論社
1974(昭和49)年5月10日
初出「日本評論 第十四巻第一号~三号」1939(昭和14)年1月~3月
入力者菅野朋子
校正者成宮佐知子
公開 / 更新2012-08-23 / 2016-07-01
長さの目安約 127 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



彼の人の眠りは、徐かに覚めて行つた。まつ黒い夜の中に、更に冷え圧するものゝ澱んでゐるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。
した した した。耳に伝ふやうに来るのは、水の垂れる音か。たゞ凍りつくやうな暗闇の中で、おのづと睫と睫とが離れて来る。
膝が、肱が、徐ろに埋れてゐた感覚をとり戻して来るらしく、彼の人の頭に響いて居るもの――。全身にこはゞつた筋が、僅かな響きを立てゝ、掌・足の裏に到るまで、ひきつれを起しかけてゐるのだ。
さうして、なほ深い闇。ぽつちりと目をあいて見廻す瞳に、まづ圧しかゝる黒い巌の天井を意識した。次いで、氷になつた岩牀。両脇に垂れさがる荒石の壁。した/\と、岩伝ふ雫の音。
時がたつた――。眠りの深さが、はじめて頭に浮んで来る。長い眠りであつた。けれども亦、浅い夢ばかりを見続けて居た気がする。うつら/\思つてゐた考へが、現実に繋つて、あり/\と、目に沁みついてゐるやうである。
あゝ耳面刀自。
甦つた語が、彼の人の記憶を、更に弾力あるものに、響き返した。
耳面刀自。おれはまだお前を……思うてゐる。おれはきのふ、こゝに来たのではない。それも、をとゝひや、其さきの日に、こゝに眠りこけたのでは、決してないのだ。おれは、もつと/\長く寝て居た。でも、おれはまだ、お前を思ひ続けて居たぞ。耳面刀自。こゝに来る前から……こゝに寝ても、……其から覚めた今まで、一続きに、一つ事を考へつめて居るのだ。
古い――祖先以来さうしたやうに、此世に在る間さう暮して居た――習しからである。彼の人は、のくつと起き直らうとした。だが、筋々が断れるほどの痛みを感じた。骨の節々の挫けるやうな、疼きを覚えた。……そうして尚、ぢつと、――ぢつとして居る。射干玉の闇。黒玉の大きな石壁に、刻み込まれた白々としたからだの様に、厳かに、だが、すんなりと、手を伸べたまゝで居た。
耳面刀自の記憶。たゞ其だけの深い凝結した記憶。其が次第に蔓つて、過ぎた日の様々な姿を、短い聯想の紐に貫いて行く。さうして明るい意思が、彼の人の死枯れたからだに、再立ち直つて来た。
耳面刀自。おれが見たのは、唯一目――唯一度だ。だが、おまへのことを聞きわたつた年月は、久しかつた。おれによつて来い。耳面刀自。
記憶の裏から、反省に似たものが浮び出て来た。
おれは、このおれは、何処に居るのだ。……それから、こゝは何処なのだ。其よりも第一、此おれは誰なのだ。其をすつかり、おれは忘れた。
だが、待てよ。おれは覚えて居る。あの時だ。鴨が声を聞いたのだつけ。さうだ。訳語田の家を引き出されて、磐余の池に行つた。堤の上には、遠捲きに人が一ぱい。あしこの萱原、そこの矮叢から、首がつき出て居た。皆が、大きな喚び声を、挙げて居たつけな。あの声は残らず、おれをいとしがつて居る、半泣きの喚き声だつたのだ。
其でもおれの心は、澄みきつて居…

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