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祇園の枝垂桜
ぎおんのしだれざくら
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「九鬼周造随筆集」 岩波文庫、岩波書店
1991(平成3)年9月17日
入力者鈴木厚司
校正者松永正敏
公開 / 更新2003-09-05 / 2014-09-18
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 私は樹木が好きであるから旅に出たときはその土地土地の名木は見落さないようにしている。日本ではもとより、西洋にいた頃もそうであった。しかしいまだかつて京都祇園の名桜「枝垂桜」にも増して美しいものを見た覚えはない。数年来は春になれば必ず見ているが、見れば見るほど限りもなく美しい。
 位置や背景も深くあずかっている。蒼く霞んだ春の空と緑のしたたるような東山とを背負って名桜は小高いところに静かに落ちついて壮麗な姿を見せている。夜には更に美しい。空は紺碧に深まり、山は紫緑に黒ずんでいる。枝垂桜は夢のように浮かびでて現代的の照明を妖艶な全身に浴びている。美の神をまのあたり見るとでもいいたい。私は桜の周囲を歩いては佇む。あっちから見たりこっちから見たり、眼を離すのがただ惜しくてならない。ローマやナポリでアフロディテの大理石像の観照に耽った時とまるで同じような気持である。炎々と燃えているかがり火も美の神を祭っているとしか思えない。
 あたりの料亭や茶店を醜悪と見る人があるかも知れないが、私はそうは感じない。この美の神のまわりのものは私にはすべてが美で、すべてが善である。酔漢が一升徳利を抱えて暴れているのもいい。群集からこぼれ出て路端に傍若無人に立小便をしている男も見逃してやりたい。どんな狂態を演じても、どんな無軌道に振舞っても、この桜の前ならばあながち悪くはない。

 今年は三日ばかり続けて散歩がてらに行ってみたが、いつもまだ早過ぎた。三日目には二、三分通りは花が開いていた。その後は雨に振り込められたり世事に忙殺されたりして桜のことを忘れていた。思い出して行った午後にはもう青葉まじりになってチラリチラリと散っていた。七、八分という見頃から満開にかけてはとうとう見損ってしまった。
 更に数日後に、花がないのは覚悟でもう一度行ってみた。夜の八時頃であったろう。枝垂桜の前の広場のやぐらからレコードが鳴り響いて、下には二十人ばかり円を描いて踊っている。四十を越えた禿げ頭の男からおかっぱの女の子までまじっている。中折帽も踊っていれば鳥打帽も踊っている。着流しもいれば背広服もいる。よごれた作業服を纏ったまま手拍子とって跳ねている若者もある。下駄、草履、靴、素足、紺足袋、白足袋が音頭に合せて足拍子を揃えている。お下げ髪もあれば束髪もある。私が振返ってすっかり青葉になってしまった桜を眺めている間に、羽織姿の桃割と赤前垂の丸髷とが交って踊り出した。見物人の間に立って私はしばらく見ていた。傍の男がこのくらいすくない方がかえっていいと呟いていたから、花盛りにはよほど大ぜい踊っていたものらしい。

 知恩院の前の暗い夜道をひとり帰りながら色々なことを考えた。ああして月給取も店員も運転手も職工も小僧も女事務員も町娘も女給も仲居もガソリンガールも一緒になって踊っているのは何と美しく善いことだろう。春…

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