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戯曲以前のもの
ぎきょくいぜんのもの
作品ID44348
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集19」 岩波書店
1989(平成元)年12月8日
初出「演劇新潮 第二年第五号」1925(大正14)年5月1日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2009-10-23 / 2014-09-21
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 現今戯曲として通用してゐる作品のうちには、若しもその主題を取つて小説としたならば、定めし読むに堪へないであらうやうな安価な作品が多い。その反対に、小説として読めば相当高い芸術的の香りを放つてゐる作品の内容を、戯曲として舞台にかけて見ると、極めて空疎な印象しか与へられないといふやうな場合が屡々あるのであるが、これは抑も何に基因するであらう。
 戯曲といふ文学的形式が、それ自身にもつてゐる弱点であらうか。或はまた、戯曲の創作がそれほど六かしいものなのであらうか。
 人はよく「これは戯曲的な主題」であるとか、「劇的な内容」であるとか、さういふ言葉を使つて、そこに戯曲創作の出発点を置かうとする。これが文学としての戯曲を芸術的に低級ならしめる唯一の原因であらうと思はれる。
 あらゆる芸術的作品の魅力は、作者の主観を通してのみわれわれの魂に触れて来るものである。客観的に「芸術的な主題」といふものは絶対にあり得ない。小説に於ては既にこの真理が普く会得されてゐるに拘はらず、戯曲の方面に於てのみ、なほ客観的に「劇的主題」なるものが尊重され、戯曲の芸術的価値が、この標準によつて論議される滑稽千万な状態を持続してゐるのである。
 人生を如何に観、如何に表現するかといふことでなしに、人生の如何なる部分を捉へるかといふことに戯曲創作の要諦があるとすれば、戯曲は断じて芸術的作品のレベルには達し得ないであらう。勿論主題の選択は制作過程の第一歩には違ひない。ただ、小説家は、あくまで芸術家としての主観を透して人生の事相に興味を向け、小説家にして初めて感じ得る真理の閃きを捉へて、これを独特の表現に盛らうとする。そこから、芸術的作品が生れるのである。然るに、劇作家のみは何故に、客観的態度を以て人生の「劇的葛藤」に注目し、劇作家ならずとも感じ得る「興味」を捉へて、これを公衆に示す義務があるのだらう。戯曲の大部分が芸術的価値に乏しい所以である。
 勿論小説にも通俗小説といふものがある。現代の日本に於ては、新派劇と新劇とを対立させて、一を通俗的、一を芸術的としてゐるらしいが、新劇とは結局、新派劇より「ロマンチックな手法」乃至「センチメンタルな分子」を除いたといふだけで、それがために芸術的価値が向上してゐるとは云へないものである。
 極めて大ざつぱな論じ方のやうであるが、小説家が小説的に人生を観、戯曲家が戯曲的に人生を観るといふことがあり得るにしても、その「小説的」な観方が直ちに「芸術的」な観方でなければならぬ如く、「戯曲的」な観方が、結局「芸術的」な観方でなければならないといふ点で、現在の戯曲家乃至戯曲批評家の頭がはつきりしてゐないのではないかと思はれる。
 ここで、第一、問題になるのは「戯曲的」といふ言葉である。芸術的といふ意味を含んだ「戯曲的」といふ言葉である。かうなるともう「表現」といふ問題に…

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